大坂暮らし日月抄
お米・粂八夫婦はいつの間にか、源兵衛裏長屋から姿を消してしまっていた。住民の誰もがその行き先を知らないのは勿論のこと、いついなくなったのかさえ気づかなかった。お米の勤め先の呉服屋に様子を伺いに行ったおてるの話によると、当の呉服屋は、とうに店を閉めていたということだった。
「かなわんなぁ、店賃半年も溜め込んどったんやでぇ。お米はんを信じとったんやが、こうなると分かっとったら、もっときつう取り立てとくんやった」
大家立ち会いの折にみんなで家の中を覗き見ると、持ち物は何も残されておらず、畳や壁に沁み込んだ黴の臭いだけが残されていた。
お米・粂八の失踪については、おしゃべりな女たちの間でさえ噂にも上らなかった。誰もが口にしないが、想像はできる。
それは、明日の我が身を思わせる出来ごとでもあった。
翌年天保八年正月に書かれた、大坂の町人の記録。
――非人乞食は申すに及ばず、貧窮なる者どもの飢寒に苦しみて死せる者日日に多く、盗賊、押込み、追剥等ますます甚だしくなりて、盗賊方の弁当を奪い取り、履物を盗み取りしことなどありと聞く。
そのほか、白昼両替えの店に至りて、金銀をつかみ取り走れるなどあり、かかるさまなれば、巾着切りが往来にて、人の手に持ち背に負いぬる風呂敷包、または赤飯、餅の類を配り歩きする丁稚、小女中の類をば、横っ面をはりたおして奪いとるという騒々しき有様なり。
晴之丞は、いよいよ故郷に帰る決心を固めつつあった。
この惨状はどうにもしようがないが、その中に身を置き、なすすべを持てない浪人の身分でいることに耐えられなくなった。故郷で役立つことがあるのであれば、それに注力することが、命永らえている自分がすべきことではないのか。
平野晋作は、即座に賛成した。
「すぐに帰ったが良い。故郷に伝えておこうか」という提案は断った。すべて、自分の裁量で事を進めたかったのである。