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大坂暮らし日月抄

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 晴之丞は伊勢から戻ると、寺子屋で教えることを辞めた。もともと好きで始めたことではなく、女でも出来る仕事である。伊勢との往復で、考える時間はたっぷりとあった。歩きながら、自身のこれからのゆき方を見つめ直しもした。
 小太郎に関わる仕事で得た報酬は最小限の暮らしに使うだけであったから、蓄えはそこそこある。寺子屋で教えるだけの仕事だと、昨今の諸物価の高騰を見るに付け、いつまでこの蓄えが持つか分からない。それに、面子がある。また、体力が鈍っていることを、伊勢を往復して感じたのである。剣の修業を再開したいとも思う。学者としての大塩平八郎が開講している洗心洞に興味もあった。
 確かな目標があるわけではないが、士官の機会がないともいえない。志を強く秘めておくのが、士(さむらい)の心である。
 
 などと思いを巡らしてみたが脱藩した身。この三、四年の間に、気持ちがだらけてしまっていることを自覚している。
 とりあえず、天満川崎町の洗心洞を覗いてみることにした。
 五百坪はあろうかという与力屋敷が続く中ほどに、大きな文字の『大塩』の表札と並んで遠慮気味に『洗心洞』の木札が下がっていた。
 冠木門(かぶきもん)は、誰でもが自由に立ち入れるように開け放されており、母屋、離れ、講堂、道場や、倉と納屋などの建物が庭を囲むようにして建っている。庭には、口入屋九兵衛から聞いていた通りの池があり、近付いて覗き見ると、紅い模様の入った鯉や黝(あおぐろ)い鯉などが数匹、泳いでいる。鯉までもが威風堂々とした風格を感じさせ、委縮させられてしまっている我が身を憐れに思う。
 
「初めてお目にかかるお方でんなぁ。今ご講義の時間でおますけど、入ってもろうてよろしぃよって、どうぞ、お入りやす」
 ふいに掛けられた声に驚いて振り向くと、植え木の枝刈りをしていたらしい男が頬被りを取って、頭を下げた。
「黙って入り込んで、申し訳ありません。洗心洞のことを耳にしていまして、どのような所かと興味を持っていたものですから。今日は、雰囲気を知りたくて参りました」
「それやったら余計見てもらわんと。みんな真剣に議論してはりますやろ。これからの生くべき道や、ご政道に関することなんかを学び合って、それはそれは真剣に論じ合っとるんですわ」
 開け放たれた講堂では、侵入してきた自分に向ける視線はない。
「やはり、ここから様子を窺わせていただきます」
 男は「さよか」と言って頬被りをし、作業に戻った。

 庭に見入っている風情を装って近寄った。
 坐している人たちの中にあって、若者がひとり書物を手にして立っていた。中斎先生と呼ばれている大塩平八郎はその横に坐して腕を組み、時々眼を閉じてうなずいている。
 大塩平八郎。話に聞いていたのですぐに分かった。
 色白でつり上がった細い眉と薄い唇は神経質で気難しげな様相を呈しており、よくとおる声で発せられた言の葉からは、学問と世相に対する厳しさを感じ取ることができる。
 弟子たちは、武士だけではなく町民農民もいるのであろうが、背筋を伸ばし、凛とした気迫を感じることができた。
 中斎師の問いがあり、すべてが聞こえてくるわけではないが、それに対する弟子の発言のやり取りは熱を帯びてきている。
 厳しい規律の中で学問を続けてきたという自負に満ちた様子を目の当たりにして、総髪で着流しの、いかにも浪人風情といった、気ままに過ごしてきた自身の姿に気後れがしてしまい、正面から訪いを入れることもなく退散したのであった。
 
 川崎町からの帰り道、青物市場の荷担ぎの仕事は自分の意思で辞めた訳ではなかったこともあり、親方がいつもいた寄り合い所に立ち寄った。
 株仲間の親方は煙管で一服してから、
「ほなら、明日から来てくれるか。労賃は前と同じやが」
と口入屋を通さなくても、あっさりと受け入れてくれたのである。
 上目遣いで、心中を見透かしてくるような口入屋九兵衛に会わずに済ませたことで、ホッとした。なぜか今は、体を痛めつけたいという気持ちが強まっていた。
作品名:大坂暮らし日月抄 作家名:健忘真実