大坂暮らし日月抄
天保の大飢饉(1)
《やべ(やれ)うれし 駿河の富士の山よりも 名は高うなる 米は安うなる》
天満天神の大鳥居に張られた落首である。
高井山城守に代わって、東町奉行に曽根日向守が着任した。3年後の天保四年(1833年)には、西町奉行に矢部駿河守定謙(さだかた)が着任し、大塩平八郎の養子格之助が番代としてすでに出仕していたが、平八郎自身も請われて度々諮問を受けていた。
幕府から派遣されてくる東西町奉行は数年ごとに交代するが、与力・同心たちは根っからの大坂生まれ大坂育ちであって、町のすべてのことに通暁しているのである。
天保三年の米の不作に続いて天保四年は寒冷の夏を迎えた上、相次ぐ暴風雨の為に全国的に大凶作となった。地域によって、米の収穫は平年の3割から6割でしかない。年貢は五公五民から六公四民となり、商品生産はすべて専売制となっている。これは、船場の豪商を肥やす結果となった。米屋は買い溜めに奔り、売り惜しんだ。
大坂での八月の米価は、一升三十文だったのが百文にまで跳ね上がっている。
大塩平八郎の進言を受けた町奉行所は、囲い米の売り払いを奨励し、酒造価格を例年の7割程度に制限したが、効果は上がらなかった。
江戸では打ち毀しが頻発し施米が行われたが、その米の供与を関東諸国に命じ、幕府直轄地である大坂にも米の江戸への回送を命じるとともに、大坂の商人には御用金(寄付)も申しつけた。
それによって、大坂周辺地区の米価はさらに騰がっていったのである。
幕府は、財政が苦しくなるたびに大坂の商人にご用金を申しつけた。
数年前のことであるが、天満で木綿・綿を扱っていた綿屋利兵衛は御用金として二千両を出したが、その後借金まみれとなってしまい、身代限り(破産)を奉行所に申し出たという前代未聞の事態まで出来している。
九月には5日間にわたって、窮民数万人が大坂近郊の加古川筋で《天下泰平我等生命者為万民》《為万人捨命》と書いた幟を立てて集まり、米を買い占めた銀貸、問屋、酒屋など百六十軒を打ち毀した。
大坂市中でも、打ち毀しや放火を予言する落首が貼られた。
奉行所は、米商人の買い占め、囲い持ちを禁じる触れを出し、投機的な米の競りを戒めた。同時に備蓄籾米二千三百俵(玄米にして五百七十五石)を払い下げ、その代金を低金利で貸しつけたが、それでも効果は上がらなかった。
城の外堀に一家そろって身を投じる者、家内でくびれ死ぬ者らが後を絶たなかった。
捨て子は寺院の僧坊に収容されたが、乳の出る婦人が少なくて困り果てる状態だった。
十月には奉行所の求めに応じて、平野屋五兵衛が七万八千軒の市中借家世帯に白米一升ずつを施している。他に、鴻池屋善右衛門、加島屋久右衛門ら22名の豪商が、借家一軒当たり二百二十文ずつ施行した。
また、奉行所に義捐金を持ち込む町人も多くいたのである。
大坂三郷(天満、北、南)の人口はおよそ41万人。日銭や労賃を稼ぐ職人、小売商人が住む借家はそのうち七割であった。一割が家持ち、二割が下男・下女の奉公人となる。
成人男性ひとり当たりの一日の米の消費は五合、成人女性は三合である。
大塩平八郎に対策を諮りながら進めたのが矢部駿河守であり、冒頭の落首はこの時に貼られたものである。
幕府は、江戸での米価を下げるために大坂から大規模な江戸廻米を強引に実施すると、大坂と周辺地の米価は再び暴騰し始め、天保五年(1834年)に入ると、打ち毀しや放火を予言する落首が市中至る所に貼り出された。
五月には、貧民350人ほどが大坂三郷と村方との境にある玉造稲荷社に集まって米屋を襲う計画を立てたが、役人になだめられて中止している。
周辺諸藩からの大坂への廻米に奔走してやっと米価は安定し、この年は全国的に豊作となったこともあって、年末には四十四万九千二百石余の蓄えができた。