大坂暮らし日月抄
突如として金木犀の香りが途絶え気付くと、伊勢地宿を見下ろせる台地に立っていた。いつ手にしたのか、山茶花(さざんか)の一枝を目の前にかざして見る。赤い、少し緩んだつぼみと緑濃い葉が数枚付いている。そして、文とおぼしき紙が結わえてあった。
周辺を見回した。夢見心地だったが、確かに、小雪はいたはずである。この文と山茶花が証拠。
急いで文を解いた。
源兵衛長屋に きっと もどりませう
これは、約束なのか。それとも、小雪の願望、だろうか。
小雪は、苦難に見舞われているに違いない。
人を惑わす術を使うとは、狐の仕業ではない。やはり、小雪は忍び。
江戸家老の命令を反故にした自分を見逃していることで、制裁を受けているのではないだろうか。ならば、力を貸さねばならぬ。おめおめこのまま帰途について見過ごせば、男がすたる。
晴之丞は今来た道を戻ろうとしたが、初めに辿った道とは異なっていた。しかも確かな道は、伊勢地宿へ下る道だけだった。
あづま屋が建っているこの台地は、ただの展望だけに作られたものらしかった。
「お客さん、やっぱり狐につままれたんでしょ、それは」
「だが、このように文が」
晴之丞は宿屋に戻ると、
「どうでしたか、思い人に出会いはった?」
と亭主に聞かれ、今し方の奇妙な出来事を話して、その文を見せた。
「これはねぇ、句会でつこうてる、ああ狂句の会ね、その短冊。この上の台地で時々批評会を開くんで、筆と用紙を置いてるんですよ。この文は、あなたの願望、じゃないんですか、ご自分で書かれたんですよ。そしてそうさせたのが、狐の仕業、とゆうことです」
それでも、腑に落ちない顔をしていた。
「この筆跡が・・・」
「筆跡もね、狐にゃぁ出来るんですよ、真似るのがうまい。ところで、伊勢参宮はまだなんでございましょ。ここからでしたら日帰りで行けますよって、是非とも明日、行かれませ。探し人の安息も一緒に祈願されてこられたら、いかがでしょう。そうすりゃ、気持ちも休まるっちゅうもんですわ」