大坂暮らし日月抄
伊勢路は恋の路
事の発端は、阿波に住む若者たちによる。
きっかけは、ひとりの若者がなにげなくつぶやいたのかもしれない。あるいはふざけ合っている時に、フイと出た言葉であったろうか。
「なんものうても、ほんまに伊勢まで行けるんじゃろうか」
「いっちょう、試してみようや」
そのつぶやきに協調した、同じ寺子屋に通っていた若者たち二、三十人が、連れだって伊勢神宮を目指したのである。
文政十三年(1830年)三月に始まった『お蔭参り』。
一文なしであっても、通行手形を持っていなくとも、伊勢参りを邪魔立てした者には神罰が下ると信じられていた。また、街道筋にある富者は競って施行すれば、大いなる神の加護と子々孫々の繁栄が約束されると考えていたから、道中困ることはない、と若者たちは伝え聞いていたのである。
近年の相次ぐ暴風雨と河川の氾濫、京・大坂の地震、コロリ(コレラ)の流行など、天変地異に不安を覚えた人々の間で「お伊勢参りをすれば幸運に預かれる」といった噂が、阿波の若者たちが通り過ぎた紀伊・和泉から河内・摂津・山城に伝わると、瞬く間に近畿から中国地方一帯にかけて広まり、ついにはすさまじい狂乱となっていった。
中には、徳川治世の底辺部にある人々の腐朽による、救いようのない社会への不満と反発を秘めて行動を起こした人もあったのだろう。
幸いにして、前年の秋は大豊作であった。長く続いた不作による逼塞感からようやく解放されて、ゆったりとした気分になっていたのかもしれない。
何十万という大群衆が、誰の指図を受けることもなく、憑かれたようになって同じ行動に熱中していくのである。最終的には、三カ月の間に五百万人にも及ぶ庶民が伊勢参りをしたという。
それは、五月の農繁期を迎えると、急に治まったのであった。
以下は、文献からの抜き書きである。
子は親に無断で、妻は夫の許可なく、奉公人も主人に断りなく、着のみ着のまま伊勢参宮に出向いた。丁稚や人足が抜け出したために、商いができないという商家も多かった。
「おかげでさ、するりとさ、ぬけたとさ」
と唱和しながら、お互いにもまれ合うようにして人の渦が移動していった。
奉公人が使いに出されるとその使い先から抜け出し、一文も持っていないために道中難儀するだろうと心配した主人が、家の雇い人や出入りの者に小遣い銭を持たせて後を追わせると、その使いの者までそのまま抜け詣りに投じていった。
道中の宿駅では、宿、飯、路銀などなにがしかの施行があった。
大坂を通過する抜け参りには、鴻池屋、加島屋、天王寺屋、平野屋などの豪商が巨額の施行を行って施行宿を提供したほか、道具屋仲間が施行馬、駕籠屋仲間が施行駕籠を出し、酒造仲間、呉服屋仲間がそれぞれ銭一千貫文、紙屋仲間からは塵紙、町番所から銭、握り飯、餅、菓子、酒、梅干、笠杖、草鞋などの施行があってお陰人気を掻き立てた。
三月末から四月にかけて、安堂寺町筋、玉造口は、抜け参りの大群衆で通行できなくなり、落し物をしても拾うことが出来ないほど道は人で埋まった。
髷を乱し、袂を翻し、尻端折って、草鞋履きの足元から埃を巻き上げて行く一団が通り、そのあとを揃いの浴衣や半纏を着込んで草鞋を足に結わえた五十人、百人の集団が続いた。そしてまた着のみ着のままの大集団がどっと道にあふれ、その間に若い女連中の粋な扮装の一群が混じり、中年男が女装した奇妙な隊列が現れた。