大坂暮らし日月抄
町なかは、昨夜の話題で持ちきりだった。
舞台は、曽根崎の高級料亭『八百新』である。文政十二年(1829年)のこの夜、ついに粛清が行われた。
西組奉行所筆頭与力弓削新右衛門の行状内偵を進めていた東組奉行所筆頭与力大塩平八郎は、決行を宣した。
弓削新右衛門は、浪人者や無宿者を使って賄賂を盛んに集め、彼らのやりたい放題の悪事を黙認してもいた。その姿勢が、西組奉行所に勤める役人に影響もし、町民らの訴えが、東組奉行所に届いていた。東組にも、弓削新右衛門の親衛隊は混じっている。
大塩平八郎は、自身が信頼を置いている者たちだけを使って、密かに探索していたのである。もしこの探索の行為が漏れでもしたら、逆に、大塩平八郎が危険な立場に置かれるのである。
時を得て、弓削新右衛門と長吏(常供の頭)たち、そして浪人者や無宿者が『八百新』に集ったところを襲撃した。
道行く人々は、東組奉行所の若党が、熊手、袖がらみ、刺股などを手に持って走りゆく姿を興味深げに眺め、
「なんや、なんや」
「おもろそうやないけ、わいらも行こうぜ」
と、一緒になって走る者たちもいた。
腹心の与力、同心共々『八百新』の表に立った大塩平八郎は、若党を裏口にも走らせ、逃げ口を封じた。
あわてふためいた店の者が外の異変を知らせると、弓削新右衛門は、最早これまでか、と悟って離れ座敷へ移動し、そこで割腹をして果てた。
大塩平八郎の采配が降りると同時に、
「御用の筋だ、縛に付けェッ」
と一斉に建物の内へなだれ込んだ捕り手たちは、弓削新右衛門の取り巻き連中と、右往左往して逃げ惑っている『八百新』の主だった者を、次々とひっ捕らえていったのであった。