大坂暮らし日月抄
松江藩では、松平斉恒の死去に伴い長男が8歳にして藩主となり、斉貴を名乗った。文政5年(1822年)のことである。藩主幼年の為、家臣の塩見宅共と朝日重邦が後見役となった。
だが、ふたりはことごとく対立していた。
栗尾晴之丞が江戸詰の時、朝日重邦から密命を与えられた。
藩を貶め、辱めようとする、塩見宅共を殺れ、と。
その昔、真田昌幸の家臣であった栗尾家には代々、一子相伝の暗殺剣が残されていた。その暗殺剣とは、周囲にいるはずの誰にも悟られることなく、本人にも自覚できないうちに命を奪ってしまう秘技。
嫡男の晴之丞も幼少の頃から、父によって伝授されている。
それを知るのは、松平秀康(徳川家康の次男)を介して、後に松江藩家臣となった朝日家当主のみであった。
また、晴之丞は江戸で道場に通い、剣術にも長けていた。その上での命令である。暗殺剣が使えなくとも、国家老を始末しろ、という意思表示でもあるのだ。
栗尾晴之丞は、勘定方の見習い役人にすぎない。わずか十石三人扶持である。両親を早くに亡くしたため、若くして父の跡目を継いだのである。
藩主のお国入りに従って、数年ぶりに生家に戻った。
生家に住むのは、祖母と、女中の梅のふたり。ほかには通いの使用人、六助がいるだけである。
「祖母(ばば)さま、ただいま戻りました」
奥座敷で祖母に挨拶をし、仏壇に帰国の報告を終えると、茶を運んできた六助に問いかけた。六助は、四十半ばの小作農家の次男である。低い禄であるにもかかわらず困窮していないのは、祖母の出が松平家に遠くで繋がっていることもあるが、六助が屋敷内で野菜を作り、自ら魚介類を手に入れて来てくれることもある。
「今年の米や作物の出来は、如何ばかりでしょう」
まだ若い晴之丞は、使用人といえども年上の六助に対して、丁寧な物言いをする。
「今年はぁ、お天道さまの機嫌がえかったでぇ、稲の育ちも順調でぇ」
「そうか、ならば農民たちの暮らし向きも安泰であるな」
「とんでもねぇす」
「晴之丞や。百姓たちがなんぼこさえてものぅ、お城がじぇ〜んぶ取り上げちょうけん、米なんど食べれん、聞いちょります。私(わ)たちゃお禄米をいただいちょるけん、贅沢さしてもろうちょりますがな」
晴之丞はうなずいた。
「江戸では、国家老が始末、始末と言って、なかなか金の融通がならぬと噂しております」
「なん言っちょうがやな、若様。江戸じゃあ贅沢三昧。作っても作ってもじぇ〜んぶ江戸へ持ってかれちょるで、地主様でも、米はな〜んかなか口にさでけん、とな」
「晴之丞、聞くところによっちゃぁ、徳川様に何万両にもなる、よけな銭(ぜん)納めてごじゃっしゃる、とか。国元の民は皆、生きるのさ精いっぱいじゃぁ、ちゅうとるにぃ」
「祖母さまは、お詳しい」
「句会にな、塩見様も時々、顔出しなされちょってな。世間話じゃおっしゃって、愚痴も残して行かっしゃるわい」