大坂暮らし日月抄
事件が起こったのは、その時である。
二十代とおぼしき着飾った女が、老人とすれ違った。
続いて早足で老人のすぐ横を通り過ぎた若い男が、小間物屋で品定めをしているその女の袂に何かを落としこんだ瞬間を、晴之丞が目の端に捉え、若者の後ろ姿を見遣った。
餅屋の前に立ち止まった老人は、自分の懐から巾着を出そうとしたらしい。突然大きな声を発した。
「ないっ、紙入れがないっ。盗られたあっ」
辺りを見回すと、通りの真ん中に出てきて、
「あの女だあっ、誰かつかまえてくれえっ」
と叫び、その大声に振り向いた、さっきすれ違った女を指差したのである。
奇しくも、十手を振りかざした男が、その女の前に立ち塞がった。いち早く現れた目明しに、不自然なものを感じた。
晴之丞は、関わり合いになりたくないので立ち去ろうかと思ったが、もし女が、無実にもかかわらず番屋に引っ立てられて取り調べを受けるようなことにでもなれば、自分に嫌悪感を抱き、後悔し続けるに違いない。
骨董屋の向かいに立って、成り行きを見守ることにした。
えっ、と絶句したまま立ちつくしている女。状況が飲み込めていないようである。
息を切らして駆け寄ってきた老人が、女の両腕に取りすがった。
「私の紙入れを、返してくれっ」
「えっ? あたしが?」
周囲に人が集まって来た。
目明しが老人を脇に押しやり、女の腕を持ち上げた。袂に何かが入っているのが分かる。それを袂ごとつかんで言った。
「これはぁ、あんたのもんか? ちょっと見せてほしいんやけど」
穏やかな声である。
女は持ち上げられた腕を振り下ろして、かぶりを振った。すぐさま自分で袂に手を入れて取り出した物を見て、目を剥いた。
「違いますっ、うちとちゃいます。こんなん知りませんっ」
手にした物を突き出した。
「それやっ。私のや。私の紙入れ、返せっ、この阿婆擦れがっ」
老人が取り返そうとする前に、目明しがひったくった。
「これは預かる。お前さんの物かどうか分からんだろうが」
「私のぉ、かぁみぃいぃれぇ〜」
「お前は番屋まで来てもらおか。じぃさんも、一緒に来てぇな」