大坂暮らし日月抄
十手が幅利かす世
暖簾を少し開いて覗き見ると、相変わらずの信楽焼の狸の姿が、小さい丸メガネを鼻の上にずらして上目で外を睨んでいたらしく、視線が出合ってしまった。おそらく、暖簾の下から見える道行く人の足元を見て、品定めでもしていたのであろう。その人物を想像していたのかもしれない。
すぐさま、
「どうぞ、お入りください」
という明るい声が発せられた。
近くまで来たついでに様子を窺っただけなのだが、口入屋九兵衛の言葉に、
「ならば、邪魔するぞ」
と暖簾を後ろに跳ね上げて、薄暗い店内に入って行った。
「これはこれは、栗尾様。お久しゅうなことで。きょうは、いかがなされました?」
「いや、特段の用事はないのだが、九兵衛に会いたくなって参った。変わりはないか」
近くまで来たついで、とは言わない。
「これは嬉しいお言葉。はい、このように相変わりませず。ところがぁ、栗尾様にはちょっと、あったそうにござりますなぁ」
九兵衛は、眼の下を綻ばせた。
「はあ?」
「わたくしには、お隠しになる必要はございません。ほれ、お綺麗なお内儀さんに、逃げられた。まぁ、あれほどのお方が源兵衛長屋にいらっしゃるというのは、流行らぬ問屋、で」
九兵衛は、しれっと言った。
「似つかぬ、と言いたいのであろう」
「へぇえ、ようご存知で。掃き溜めに鶴、とも申しますがね。でももうすっかり、大坂に馴染んで」
「いや、それより、お主までが存じて居るのか」
「ここへは、いろぉんな人が出入りしてますんでね。しかも、噂好きで。なぜなんでございましょうねぇ」
九兵衛は、好奇の視線を向けた。
「何故に噂好きが、多いのであろうな」
「なんで、あなた様をほっといて去られたのか、と」
九兵衛の言葉を黙殺して帰ろうとしたところで、
「邪魔すんで」
と暖簾をかき分けて入って来た男がいた。裾をからげて十手を腰帯に差し込んでいるが、いかにもたちが悪そうである。
九兵衛は一瞬顔を背けてから、笑顔を浮かべた。
「お役目ご苦労様です。この間斡旋さしてもろうたお人は、どないでしたろうかな」
男は、入り口で立ったままの晴之丞に素性を探るような視線を走らせてから、言った。
「いやな、また別のん、頼むわ。あいつ、もたんかったよってに」
「今時、なかなかいらっしゃらないのでねぇ。腕の立つご浪人さん、などとゆうんは」
晴之丞が、腕の立つ、という言葉に振り向いて口を挟もうとしたのを見た九兵衛は、咳払いをしてあわてて言い継いだ。
「金の返済を催促するんでございましょ、腕ずくで」
「誤解してるようやからゆうとくけど、腕ずくで取り返したことなんかあらへんで。いっつもな、てぇぇねいに言葉を尽くして返済をお願いしとるんやがな」
「それやったら、甚五郎親分ひとりでなさったらよろし、思うんでございますけど」
「いやいや、ワシは御用の筋が忙しゅうて、なかなかドンならん」
「雨降りの太鼓でんな、ドン鳴らん」
「おちょくっとったら、いてまうぞっ」
「いえ、わたくしは、うどん屋の釜、ですから」
「まぁええ、口入屋の口達者にはかなわん。ほな頼んだで。その代わり、この月の見守り賃はいらん。邪魔したな」
「手数料、払わんくせに」
甚五郎の耳に届かないように、九兵衛は口先だけでつぶやいた。
踵を返した甚五郎は、再び晴之丞に一瞥をくれると「フンッ」と軽蔑したような視線を送って、外に出た。