大坂暮らし日月抄
「大坂の暮らし、どうだ、慣れたか」
「ああ、肩肘張らなくて良いから、気持ちも緩んできている気がするのだが。故郷(くに)の様子は? 何かもたらされたのか?」
「心配することはない。祖母様も達者に暮らしておいでだ。おーい親爺ぃ、もう一本、頼むっ」
曽根崎川沿いは大きな花街であり、瀟洒な数寄屋造りや豪壮な二階建ての料亭が立ち並んでいる。
小紋や無地に裾模様がある紋付、下げ帯を垂れ、島田髷の粋な芸者衆が褄を取って急ぎ足で街路を行き交い、新内流しの連弾きが小料理屋の前に立って三味線を弾き、しっとりとした唄声を聞かせている。
「おい、大丈夫なのか。居酒屋といっても、ここらは高いんじゃないのか」
「心配するな。近くにいるとはいえ、こうして一緒に飲めることは、そうそうないんだ。お主が大坂に来て、初めてじゃないか。気兼ねせずにさぁ、飲め」
給仕の娘も、ここでは粋でこざっぱりした姿をしている。
運ばれて来た徳利を差し出して、平野晋作は晴之丞を促した。
「ほれ、拙者を訪ねてきた女、なんと言ったかな」
「小雪、の事か」
「一緒に暮らしているのか」
「ああ」
「いつ、祝言を挙げたんだ。水臭いぞ」
「いや・・・まだ、祝言は」
「えっ!? どうゆうことなんだ」
松江を出立してから真っ直ぐに平野晋作の元を訪れると、こっそりと藩屋敷から呼び出し「松江藩を・・・脱藩してきた」と言ったきり、理由は言わなかった。晋作も問い詰めることはなく、「そうか」と藩の誰にも知れないようにして、住まいなどの便宜を図ってくれたのである。
それ以来、疎遠を通していた。
「会おう」と言ってきたのは晋作である。使いの者をたてて日時と場所を指定してきた。
故郷に何か異変でもあったのだろうか。
脱藩のお咎めが解かれたのだろうか。それとも居場所が知れ捕縛の命が発せられたのかと、期待と不安がない交ぜとなった気持ちで出かけてきたのである。
「まっ、たまにはいいだろう。一緒に飲みたくなっただけの事だ」
と言う。ところが話の流れが、小雪のことに向かおうとしている。悪い話でなかったので安堵したのではあるが。
「小雪・・・なぁ、随分昔になるが、こゆき、という名の女の子の事、覚えていないか。小太郎もその時、いたんだが」
柴犬の小太郎の事である。再び注がれた猪口を口に運びながら、子供の頃の一場面を思い返してみる。
「女の子が小太郎に近づいて来た時、小太郎が跳びついた弾みで田んぼの中に転げ落ちて、下駄の鼻緒が切れた上に、全身泥まみれにしてしまったことがある。その時の女の子の事か? お前の妹の着物があるからと、大泣きしているその子をお前の家まで、それがしが負ぶってやったのを覚えておるが、顔も名も覚えておらん。出会ったのはその時限り、であったと思う。だが、こゆき、などありふれた名前、だ」
口の前で止めていた猪口に口をつけた。
冷奴を一心に口に運んでいた晋作が、顔を上げた。
「ああ、ありふれた名だから別人かもしれん。だがあの後、母上が言っていた言葉をな、最近ふと思い出したんだよ」
「なんと」
「朝日様の御親戚の方だしこな、と」
晴之丞は、煮豆をつまんだ箸を止めて、晋作を見つめた。
「ま さ か」
煮豆が落ちた。