大坂暮らし日月抄
小太郎の扱いにも慣れてきたところで少し遠出をして、大川から淀川の畔(ほとり)を遡って歩いた。
東の空から太陽が顔を出し始め、波のさざめきにつれて煌めく川面が美しい。そこでは数隻の舟が停泊して、漁をしていた。そして、京を目指す三十石船が綱で引かれて遡航していく。朝早いにもかかわらず、多くの客が詰めている様が見て取れる。
師走に入ると、町々には見違えるほどの活気が満ちてきていた。
冷たい風が吹き付けてきて、思わず襟巻を握りしめた。
小太郎は相変わらず、元気、である。水鳥が飛び立つと追いかけようとするので、綱を離さないように握りしめるのに必死だ。おかげで手の皮が擦り剥けて痛い。次回からは、手覆いを用意しなければならんな。
だが、こうゆう広々とした、自然に満ちた所を歩くということは、体に良いだけでなく、頭にも良いのだと思う。
江戸での事、松江の事、小雪を含めたこれからの事、いろいろな出来事が、頭をよぎっていく。
その時ふと、小雪の存在に疑義が生じた。
何故、自分にまとわりついているのだろう。出雲参りというのは、事実であったのだろうか。
江戸から来た、と言っていたように思うが、帰らなくて良いのだろうか。途中、供の者の具合が悪くなった、とも言っていたが、迎えに誰も来ないというのは不思議だ。
供が付いていたほどであるからにして、そこそこの家筋の者だと考えられるのだが・・・。
いつの間にか、畑作地に出た。
道標には、守口村、とある。東海道の宿場町である。
村内をぶらぶらしていると、何人もの人が泥の中に入って作業をしている。眺めていると、泥の中から蓮根を掘り出しているのだと分かり、そばまで行った。
吹きさらしの簡素な小屋で火を焚いて一服していた男が、煙管を持ったまま近づいて来た。
「これはこれは、いつもお世話になっております」
心当たりのない、初めて見る男である。
「東組奉行所の、お方でしょう。わたくしは、この畑を所有しております、白井孝右衛門にございます」
その時、泥田に入っていたひとりが顔を上げた。
「カステーラじゃねぇか」
「存じて居るのか」
「わしゃぁ、汲み取りで、何べんもおうとるんや、のぅ、カステーラ」
カステーラこと小太郎は、尻尾を大きく振っている。
白井孝右衛門が続けた。
「わたくしは、中斎先生の元に時々通っとります」
「中斎先生?」
「あれっ、ご存知ない? 大塩平八郎様ですよ」
「与力の? 盗賊と渡り合ったとかいう」
「洗心洞をご自宅で開所されており、わたくしも弟子のひとりに加えていただいております」
「洗心洞?」
「陽明学を門人に教え、自らもさらに究めようと、日々努めておいでなんですよ」
「陽明学か。朱子学でなく」
「お江戸では朱子学が奨励されておって、お盛んなようですなぁ。でも中斎先生は陽明学にご傾倒され、正しい学問で心を洗い清める所として、洗心洞を設立されたのです」
「その学問の、真髄を存じて居るのか」
「はい」
白井孝右衛門は、煙管の灰を落として、姿勢を正した。
「知って行わないのは知らないのに等しい」
「知って行わないのは知らないのに等しい」
「すなわち、知行一致」
「知行一致」
「中斎先生こそは、尊敬に資するお方やと存知ます。ちょぉっと気難しいところも持ち合せてはりますけど、学問に対しては、弟子にもご自身にも、大変お厳しい」
「その洗心、あっ」
泥田の中から、先ほど声をかけて来た男が上がってくると小太郎は駆け出し、話に夢中になっていたために、綱が手から離れた。褌姿の男の周りをもたれかかるようにして跳び回ったから、丁寧に毛繕いされている被毛が、みるみる泥に汚れていった。
「こりゃぁっ、今はあかんのやっ、あっち行っとれ。はよぅ火に当たらしてくれ。さぁぶ〜いぃがなぁ」
「ああ〜っ」
取り押さえようと右往左往する晴之丞も、泥まみれとなってしまったのである。