ミゼンの旅
「わたしはこれから、イズと一緒に新しく世界に生まれます」
指輪から生まれた光はノルマの光と溶けあい、イズの胸の辺りから似た色の光を少しずつ呼んでいます。ミゼンは尋ねました。
「今度は、どんな人生を生きるんですか」
「そうねえ」
ノルマは目を閉じて唇を緩めました。楽しい夢を見ているように。
「今度は、彼が女性で、わたしが男性になるかもしれないわね。もしかしたら、お母さんになったイズのところへ、わたしが子どもとして生まれるのかもしれない。なんにせよ、今のわたしたちに劣らない愛情が約束されています。そして、そう、次はイズが先に戻ってくることになるでしょう」
「ノルマさんの気持ちを分かるために? 」
「そう。だから、世の中を水浸しにするくらい泣かなくては」
イズが顔を上げました。冷たい涙に濡れたその頬は、まるであどけない子どものように心細いのです。イズはノルマの優しい顔だけを一心に見つめ、彼女の名前を呟いたようでした。
ふたりは幸福そうに抱きあうと、ソーニャと同じように光の中に溶けてゆきました。森の中では、何が起きたかも知らぬげに、鈴を振るような鳥の声がしています。雷はいつの間にか遠くに鳴り、青い空に吸いこまれるみたいに聞こえなくなってゆきました。
マロイはまた、どこへ行くとも告げないまま歩き出しました。ミゼンは小走りにあとへついて行きます。
けれども、長いとも、短いとも分からないこの不思議な旅も、もうじき終わりでしょう。どういう終わりかたをするのだかミゼンには想像もつきませんが、マロイの静かな背を見ているうちにそう思えたのです。
「『ミゼン』」
マロイが厳かに言いました。
「始まりであり、終わりでもある。隙なく満ちておる。また、何もない、ということでもある」
「どういうことですか? 」
「ミゼンとは、『零』という意味じゃ」
始まりであり、終わりでもあるというマロイの言葉を考えながら、ミゼンは自分の掌を見つめました。少し汗をかいてしっとりとした柔らかな手は確かにそこにありますが、じっと見ていると傷だらけのクリストフの手や、長い指のついたマルセルの手や、何万年ものうちにミゼンが生きてきた人々のいくつもの掌が幻のように現れるような気がします。
「そなたは今、すべての因果を経験し、何の因果もない。あらゆる行いが、どれかひとつが飛び抜けることなく等しく摘み上がって平らな形をしておる。償うべき罪も、また賞されるべき善行も、そなたの魂には同じだけ刻まれておるのじゃ。次の人生をどう生きるかで、また新たな縁が結ばれることになる。賢者か、聖者か、愚者か。そなたの行く末を決めるのは、そなたの行いなのじゃ」
「僕(・)も生まれ変わるんですね」
ミゼンはどきどきしながら言いました。
「次は僕、どんな人になるんでしょう? 」
「わしに分かるのは始まりと終わりだけじゃが――」
マロイは立ち止まり、これだけはミゼンの顔を見て言いました。
「そなたは、『導くもの』として生きることになるじゃろう」
「導くもの? 」
「さよう。何を、どう導くかは、そなたの生きかた次第じゃ。罪を犯し、罪を憎み、罪を許したものにしか、これは務まらぬ。導くもの、すなわち『救うもの』じゃ」
憎み、裁くだけでは救うことはできぬ、とマロイは呟きました。
「導き手に生まれるものは少なくないのじゃが、善き導き手でいられるものは稀じゃ。本人が善きものであったとしても、後世その教えが歪められ、意味をなさなくなることもある――まことこの世は度しがたい。幸福の意味を履き違えておる」
「そうだ、マロイ」
ミゼンは声を上げました。旅の目的をふいに思い出したのです。
「不幸の正体を暴きにいくということでしたよね。幸福と不幸は、違うものじゃないって」
「そうじゃ、どちらも幻のようなものじゃ。しかし、自分の意思ひとつで自由に行き来ができるのじゃぞ。もうひとつ、ある男の話をしよう。彼はまだ『生きて』おる」
マロイは懐から鎖のついた丸い懐中鏡を取り出してミゼンに見せました。厳しい目つきの、痩せた男の人が映っています。油で撫でつけた黒い髪は、彼がかきむしるのでぼさぼさです。分厚いレンズの丸眼鏡はインクと指紋で汚れ、その汚れが、さらに彼をいらいらさせているようです。唸るような低い声を上げてペンを投げ出すと、灰皿から短い煙草を拾ってようやく火を点け、椅子の背にもたれて貧乏ゆすりをはじめました。
「ティアトロ・ボルゼイ」
マロイは鏡が曇ってきたので指で拭おうとしましたが、それは鏡の曇りではなく、ティアトロの煙草の煙が立ちこめているせいなのです。
「彼は哲学者じゃ。そなたと同じように導き手として生まれ、論文を通して己の考えを発表することになったが、自分の考えを実践できていないことに気づいておらん。残念ながら頭でっかちじゃ」
「ティアトロさんは、どんな考えかたを? 」
「ティアトロは幸福とは何かを考えるにつれて、あるとき不幸の正体に先に気がついた。――すなわち、執着じゃ」
執着、とミゼンは呟きました。アスタがミトを亡くして悲しんでばかりなのも、アデルがアスタを羨むのも、シェムとサヴィアの『恥』も、デーラの強欲や、ソーニャの絶望、イズの怒りも、みな何かにしがみつこうとしているために起きているのではないでしょうか……。
「でも、大事な人のために泣いたり、痛い目に遭って怒ったり、何かを欲しいと思ったりするのは、悪いことでしょうか? 」
「悪いことではない。何の欲求も起こらなければ生きてゆくことはできぬからのう。死者や、病に倒れたもの、傷を負ったものの苦しみを思って泣くのはごく自然な心の働きじゃ。しかし、それは本当に彼らのためばかりの思いじゃろうか? 自らの感情を、傷を負ったもののせいにしてはならん。そこを見失うとケンやイズのように、傍らから呼びかける声にも気づかなくなってしまうのじゃ。相手が本当は何を望んでいるのか、よく考えねばのう……イズがいつまでも怒りを解かぬのを、ノルマが望んでいたかね? 」
「でも、それじゃ」
ミゼンはティアトロの青白い顔を見つめました。白髪のない髪や青っぽい白目を見る限り、まだ人生の残量を心配するような齢ではないはずです。けれども血走った目にひどい猫背のティアトロは眉間や鼻に寄せる皺がもう緩みようもなく刻まれて、ずいぶん老けて不健康そうに見えました。
「生きている限りは、不幸があるんじゃないでしょうか? ……」
「そうじゃな。肉体を授かるということは、すなわち執着とともに生きるということじゃ。どんなものでも、多かれ少なかれ欲望に呪縛されている。中には、体を抜け出したあともそれが分からぬものもいる。変だと思わぬか? 肉体を生かしておく義務からとうに解放されたというのに、何が欲しいだの痛いだの腹が減ったの……思いぐせとはかくも恐ろしい」
「どうして、僕たちは生きるんだろう」
ミゼンはなにか、とても清々しい気持ちがしました。答えは、彼自身の中にあるのです。