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ミゼンの旅

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 「腕のいい、心の温かな医師でな。よく患者の話を聞き、彼らがそうと知らずに抱えていた不安をいつの間にか解いてしまうのじゃ。町の医師会の中ではいつまでたっても大した地位に恵まれなかったが、一向気にもかけんでな」
 「だって、意味のあるものではありませんから……」
 急に口をついて出た言葉にミゼンが自分で驚いていると、マロイもノルマも声を立てて笑いました。イズだけが、頑なにじっとしているのです。
 「あるとき、医師会にひとりの娘が預けられた。働いていた見世物小屋の女主人を刺し殺したかどで捕らえられたが、本人の衰弱がひどかったために治療をするようにとのことじゃった。普段医師会を取り仕切っている医師たちはどうしたか? ――誰ひとり、娘を自分の病院へ迎えようとはせなんだ」
 「なぜ! 」
 突然、激しい怒りと狼狽、それに悲しみがない交ぜになった衝動が吐き気のように突き上げてきて、ミゼンは叫びました。
 「なぜ誰もこの子を診てやろうとしない。金を持たないからか? 罪人を助けたと、後ろ指を指されるからか? それとも、表向きに娼婦と関わると名誉が傷つくからか? 神聖な町医者の名誉が? そんなものが命より大切なのか! 医者のくせにぶくぶく太ってばかりいやがって……」
 そこまで言って、ミゼンは我に返りました。ノルマはくすくす笑っています。
 ミゼンは赤くなりました。
 「ごめんなさい、僕……」
 「美しい心の発露を恥じることはありませんよ」
 「そうじゃな。言葉が粗いだけじゃ」
 マロイは宥めるようにミゼンの肩を叩いて励ましました。
 「マルセルがそのあとどうしたかは、そなたが一番分かっているじゃろう」
 「彼は自分の診療所へその女の子を入院させました。――ソーニャという、その女の子を」
 ミゼンはぐらぐらする気持ちをそのままに話しはじめました。マルセルの怒りは波のように寄せたり引いたりしながら、最後にはとても静かな、深い感情が残りました。水底に沈んでいる氷のような悲しみは、少しずつ溶け出して美しい泉のように温かい慈しみを湧き出してゆきます。
 けれども底にある大きな悲しみが、みんな溶けてしまうことはないようでした。
 「結核が、もうずいぶん進んでいるようでした。苦しかったでしょうに……自分の人生なんか、みんな諦めてしまっているようでしたよ。焦点の合わない目が、人を憎むときだけ真っ暗くなってね――世の中に、こんなひどい話があるかと思って――僕、泣いてしまったんです。患者の前で医者がやることとしたら、最低なんだろうけど――スープに手をつけないソーニャの前で、泣いてしまったんですよ」
 「ソーニャは自分が助からないことを分かっていて、命と引き替えにデーラの魂を呪ってやろうとしていたのじゃ。たとえともに地獄へ落とされても、永劫の苦しみを与えてやりたいとな」
 マロイはミゼンの背を抱いて促しました。
 「そなたが不覚にも泣いて、ソーニャはどうした? 」
 「ソーニャは、とても驚いた顔をしてました。それから、僕に負けないくらいに泣きはじめました――細い声を上げて、生まれたばかりの子どものように。そして、チキンと卵のスープを食べてくれました。こんなにおいしいものは食べたことがないって……」
 マルセルがしたのと同じようにしゃくりあげながら、ミゼンは言いました。
 「それが最期でした。そのあと静かに眠りはじめて、そのまま亡くなったんです」
 「デーラへの憎しみに満ちたままであったなら、ソーニャはうつむいてなどいなかったかもしれぬ。迷いがなければ、悩みもないからじゃ」
 マロイはマントの裾でミゼンの頬を拭ってくれました。
 「しかし、それでは本物の幸福は手に入らぬ。ソーニャは本当は、心の正しい娘だったのじゃ。そなたの涙で我に返り、苦しむことにはなったが、そのくらい、人を許すというのは難しいということじゃ」
 ノルマが言いました。
 「マルセルはソーニャを看病したことで自分も結核になり、その後若くして亡くなりました。診療所に入院していたみんなを、他の病院にかかれるようにしたあとで。私財のすべてをつぎこんでしまったので、本人は毛布一枚にくるまってたったひとりで命を終えたのですよ。覚えていますか」
 イズとノルマの記憶でできた森に、いつの間にか大きな町ができています。運河沿いの通りに建つこぢんまりとした診療所が、マルセルが暮らした場所でした。
 今、診療所には誰もいないようですが、建物に見捨てられた気配はありません。水色に塗られた扉の横に、花輪と金属の板が打ちつけてあります。
 〈慈愛と勇気とわたしたちの友、本物の医師マルセル・ヴェルドの家〉
 「町の人たちが……」
 ミゼンは驚いて花輪を見つめ、光り輝く文言を何度も読み返しました。
 「あなたの勇気を讃えて作られたのです」
 ノルマはマルセルよりずっと前の時代を生きていたのに、ミゼンよりもマルセルの事情をよく知っているようなのです。
 「あなたは罪を償ってあまりあるほど美しく生きました。これがその証なのよ」
 「僕……」
 「罪は後悔するためのものではありません。反省し、学び、二度と過たず、一度間違っただけ、より正しく生きるためにあるのです。それに、分かったでしょう、罪とその償いは一度の人生で決着がつくとは限らない。殺めたものは殺められるかもしれない。騙されたものは、前は自分が騙したのかもしれない。ですから、どんなに理不尽な仕打ちを受けても、それにこだわるべきではないのよ。怒るのも、憎むのも、嘆くのも、自分が苦しいだけなの……」
 ノルマはイズの前にひざまずいて、彼の額に額をすり寄せました。イズは、ノルマがそんなに近くにいるというのに、気がつきもしません。悲しい眺めでした。
 ノルマの記憶で森の村はとても明るくなりましたが、山の頂に打ち落とされる雷は決してなくなりません。イズはノルマのためか、自分の心の苦しみのためか、ただ一筋の涙を流しました。
 「僕のことを恨んでいるんでしょうね」
 悲しくなってミゼンは言いましたが、ノルマは切なく笑って首を振りました。
 「あなたのことだけではありません。わたしを取り調べた修道士のことも、密告した人のことも、見ているだけだった村の人たちのことも、わたしを生かしておけなかった世界のことも、何もできなかった彼自身のことも、それに彼を置いていったわたしのことも、イズは誰のことも、まだ許せないのです」
 「どうしたら、助けてあげられますか」
 「心を救えるのは、その心を持つ人だけです」
 ノルマは答えました。
 「外からどんなに声をかけても、その声が届くのは彼が聞く気になってくれたときだけです。体のない、心だけの姿となった今は、ことにそうなのです。あなたの涙がソーニャを救ったわけではない――ソーニャに、あなたの涙を温かいものと感じ取る力があったから、ソーニャは救われたのです」
 ノルマはイズを抱きしめて、イズの指に握られた焼けた指輪に口づけしました。輝かな銀色の光が輪の形に広がります。イズがノルマのために選んだたったひとつの指輪は、かつてのイズの気持ちのように純粋な銀でできているのでした。
作品名:ミゼンの旅 作家名:れい