ミゼンの旅
「失くすのが怖いものを、どうして欲しいと思うんだろう? 楽には生きられないと分かっているのに、どうして命のあることが嬉しいんだろう? ……生きることで、僕たちは何をしようとしているんでしょう? 」
「さあてなあ」
マロイは笑って、鏡をしまいました。その直前に見えたティアトロは、進まない原稿を一度脇へどけて猫のように大きな伸びをし、机につっぷして眠ってしまうことにしたようです。
「彼はひとつ学んだな。根を詰めても、書けぬものは書けぬ。――これからは、子どもを急かすことも少しずつなくなるといいのじゃが」
「子ども? 」
「ティアトロは我が子を大学へやろうと必死なのじゃ。学者にするのが夢なのじゃな」
「厳しく勉強させているんですか」
「いや、まだ生まれておらん」
マロイはミゼンをちらりと見て続けました。
「妻の腹に向かって、今から数式やら地理やら天文やらを呟いているのじゃ」
「そんな無茶な」
「彼はこれまで挫折を知らなかった」
ミゼンのうんざりした顔を、マロイはおかしそうに見ています。
「自分そっくりの熱心な父親にあらゆることを――本に書いてあるようなことばかりじゃが――詰め込まれ、それを残らずこなしてきたのを誇りに思っていたのじゃ。であるから、かつて輝ける少年時代を犠牲にしたことなど忘れ、子どもにも同じことをしようとしている。しかし、今回取り組んでいる論文は、なんと――真実でありながら、彼の手には負えぬのじゃ」
「頭でっかちだから? 」
「そのとおり。執着が幸福の妨げであることを説きながら、彼はまだ子どもの人生に対しての自分の執着と依存に気がついておらぬ。ごらん、あの、幸いの逃げていきそうな寝顔を――だがもう間もなく、彼のそんな執着を、彼自身がまったく顧みなくなるような大事件が起こるのじゃ。彼は執着と依存と期待とを忘れるくらいの感情を経験し、それによってあの論文は真に完成する」
ミゼンはマロイを見上げました。ティアトロにどんな『大事件』が起こるのか、分かったのです。自分がこれから誰の子どもに生まれるのかも。ティアトロが、どう変わってゆくのかも。
マロイは目を細めてにっこりしました。
「エリザベス・ボルゼイ。君の出番じゃ」
生まれたばかりの赤ん坊は、まだ目がよく見えません。ふわふわの毛布にくるまれたエリザベスは、柔らかい爪のついた親指をしゃぶります。今日は一月にしては暖かく、毛布の中は少し暑いくらいなのです。
「いいかい、エリー」
大きな黒っぽい塊が、嬉しくてたまらないというふうに声をかけてきました。エリザベスを笑わせては大騒ぎする、『パパ』です。
「パパは今、とても幸せだ。エリー、人間の幸せってやつは、心がけ次第なんだねえ。パパはママと君のためなら、何にも怖くないよ……」
「本当の幸せとは、何を失うことにも動ぜず、平安な心を持つことじゃ」
『パパ』の声に続けて、よく知っている声が聞こえました。
よく知っていますが、誰だか分かりません。『パパ』がまた言いました。
「君が生まれたとき、不思議なことが起きたんだ。初めて君の顔を見たときさ――君に聞かそうと思って、『ティーマイオス』なんて手に持っていたんだが、急にそれは、すごくおかしなことなんじゃないかと思えたんだ。なんせ、君を抱き上げるのにはすごく邪魔な代物だったからね。で、どうして子どもにそんなもの見せたかったんだろうと考え、これはあの忌むべき固執ってやつじゃないかと考え――君のパパは哲学者だから、考えるのが仕事なんだ――そして、娘には健やかでいるということのほかは何の期待もかけないことにしたんだ。だって僕の論文では、執着こそ不幸の源だからね」
ティアトロはエリザベスに何か差し出しましたが、それは硬い革表紙の本などではなく、小さな鈴の入ったピンク色のうさぎのぬいぐるみでした。
「……でも君さえよかったら、うちにはいい本がたくさんある」
また、よく知っている声が聞こえました。
「自分が善きものとして生きているかどうか迷ったときは、周りの人間の顔をよく見てみるがいい。誰かひとりでも、君にほほえみかけてくれるものがいるかどうかを」
幸多かれ、と彼は呟きました。
エリザベスはティアトロではないその声を覚えていようとしました。思い出そうとしました。確かめてみようとしました。けれどもだめでした。あくびをひとつするともう、そんな声が聞こえたこともみんな忘れてしまいました。
エリザベスは今、とても眠たいのです。
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