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ミゼンの旅

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 暗く冷たい路地裏はいつの間にか途切れ、町は後ろへ離れてゆきます。頭に白く雪を戴いた気高い山脈を見上げながら、ミゼンとマロイは深い森の中へ足を踏み入れました……。
 「幸せ、不幸というものは、ひとつの事柄に対する我々の勝手な感想に過ぎぬ。我々の心が生み出す幻のようなものじゃ。しかしそれならば、美しく優しい幻を見たいとは思わんかね……」
 乳色の柔らかなもやが漂い、ころろころろと虫が鳴きます。旅のはじまりにミゼンが立っていた、あの森にふたりは戻ってきたのです。

 森の中に小さな村があります。たちこめるもやのせいでほとんど見えませんが、古い風見鶏や、井戸にかけられた三角屋根なんかがぼんやりと分かるのです。人の姿は見えず、誰の声もしません。家の戸は固く閉ざされ、開いている窓もないのでした。
 井戸のあるところが村の広場なのでしょう、井戸端には誰かが摘んで置いた花の束が、水を張った洗濯桶に挿したままになっています。
 そばにもうひとつ、薬草ばかりを入れた籠があります。ミゼンがもやを透かしてよく見ると、桶の中の花も、籠の中の薬草も、腐ってどろどろした黒い汁をぼたぼた垂らしているのでした。
 「花と薬草の主は同じ娘じゃ」
 マロイは溜め息のような声で言いました。
 「主を失った植物がしおれていくさまが、この記憶の主にはこう見えていたのじゃな」
 マロイは立ち止まりました。背の高い彼が、自分よりもっと大きなものを見上げて目を細めます。
 遠くの人までがよく見えるようにひときわ足場を高くして作られたもの、焼けついて崩れかけたそれは、大きな木の十字架でした。
 ミゼンは驚いて、悲鳴を上げました。頑丈に組まれた十字架の足元に、うずくまっている人があったのです。焦げて真っ黒になった指輪を両手に握りしめて、その人は目を見開いているのでした。
 「イズじゃ」
 マロイが言いました。その声にかぶさるように、山の頂に雷が打ち落とされます。細く鋭い稲光は吹き出した血のように真っ赤で、どす黒い空を紫色にぴかっぴかっと光らせます。ただれた傷が膿むような、それは凄まじい空でした。
 「イズはこの火刑台で恋人を失った」
 マロイの声は静かです。けれどイズの雷鳴は、マロイの声をかき消すことはないのでした。
 「賢女として、この村で産婆をしたり、薬草を処方したりして暮らしていたノルマという娘じゃ。これからここへやってくる」
 火刑台の後ろに広がる森に、金色の光が現れました。東の空に昇る朝日の、最初の一条のように、純粋な光です。もやの中ではほんの小さな、針の先ほどの輝きでしたが、それは遠くにあるからだということがじきに分かりました。
 本当は、大きな大きな光です。森中のもやを晴らしながら近づいてきた光はいつしか空いっぱいに広がり、村は見違えるほどに明るくなりました。
 その光の中央に立って、静かに歩み出てくるのがノルマでした。ノルマ自身が月か太陽であるかのように美しい輝きに包まれ、濡れたみたいにつやのある黒い髪を一筋一筋照らしだします。頭に野バラやシロツメクサで編んだ花輪を乗せてノルマがやってくると、イズの記憶のために冷えびえと枯れて倒れていた植物がゆっくりと伸び上がり、若い果物のようなよい香りのする風に揺れはじめます。花を持ってノルマのところへ駆け集まってくる子どもらの笑う声は天上の音楽のようです。
 ノルマはミゼンとマロイに気がついて、慈しみをもってほほえみを浮かべました――。
 「僕、あなたを知ってる……」
 ミゼンは立ちすくみ、がたがた震えはじめました。まるで、ノルマがにっこり笑ったまま、ひどい罵りを口にしたように。
 けれど本当は、ノルマの唇が悪い言葉を話したことはありません。ミゼンがノルマを恐れたのは、ただ突然に思い出されたある光景のためでした。
 「僕、あなたのことを焼きました。そこの火刑台で――あなたを縛りつけて、火をつけたのは僕だ――」
 村人たちは恐怖と好奇心と嫌悪とで、柵の外から遠巻きに見ています。雷鳴のようにざらざらとひび割れた声が木霊し、怪物の叫びのようになって森中を揺らします。取り押さえられたイズがノルマのことを呼んでいるのです。喉が枯れてやがて血を吐いても、イズは彼女のために泣き叫び続けました――。
 ノルマはやはり微笑を浮かべたまま、ひとつ頷きました。
 「そうです。わたしはかつて魔女として裁判にかけられて有罪になり、火で焼かれました。あなたはそのときの処刑執行人です」
 「僕――」
 ミゼンは何を言っていいか分かりませんでした。ノルマはちっとも、怒ったり恨んだりはしていないらしいのです。それどころか、ミゼンが震えているのを、優しい眉をちょっと下げて困ったように笑いながら見守ってさえいるのでした。
 「人には、いろいろな生きかたがあります。あなたはたまたま罪を作ってしまったけれど、それもひとつの学びのきっかけなのよ」
 「僕、どうしてそんなことをしたんだろう? 」
 ミゼンは誰に聞くともなく呟いて、その場に立ち尽くしました。
 「どうして、あなたを焼いたりできたんだろう? あなたに治療してもらったこともあるのに――あなたに取りあげてもらった子どもを、大勢知っているのに――」
 マロイは黙ってミゼンの肩を支えてくれました。
 指の間に、粗い麻縄の手触りが蘇ります。ミゼンの口をついて出る言葉は、ノルマを焼く火の熱を頬に感じながら思ったことと同じなのです。
 「――あなたの方こそ、聖女かもしれないのに――」
 「あなたは、勇気が足らなかったのですね」
 ノルマはそばへ来て、ミゼンの髪をそっと撫でました。
 「でもそれは、手に入れるのがとても難しい勇気だったのよ。もしあなたがあそこでわたしを庇っていたら、あなたも厳しい拷問にかけられたでしょう。どのみちわたしは焼かれることになったはずよ。それだけは、変えることのできない筋書きだったのだから」
 ミゼンがそれでもノルマの顔を見られずにいると、ノルマは井戸端の花筐に手を差し入れました。花か泥かというほどだった中の植物は、ノルマの手が触れるとみずみずしい命を取り戻したかのようでした。ノルマがミゼンに差し出した青いヤグルマギクは、ノルマその人のように優しい姿をしているのでした。
 「それに、あなたは自分が十分に償いをしたことを忘れています。そうですね、マロイ」
 「さよう」
 マロイが頷きました。
 「ノルマを焼いたのは、そなたのふたつ前の人生でのことじゃ。そなたはクリストフという名でこの森の村に生きていた。クリストフの時代にこしらえた罪を、そなたはそのあとマルセルという男の一生をかけて償ったのじゃ」
 「マルセル……」
 ミゼンは不思議と唇になじむその名前を、時間をかけて何度も呟いてみました。マルセルとして生きていたときのことを、ミゼンは何も知りません。けれども、それは確かにミゼンの中に刻まれた人生だったのです。思い出せないけれど、ミゼンはマルセルという人のことが分かりました。とても小さい頃のことを、覚えてはいないけれど自分のこととして分かっている、そんなふうにマルセルのことも思えたのです。
 「マルセルは医師じゃった」
 マロイは言いました。
作品名:ミゼンの旅 作家名:れい