ミゼンの旅
悲しくてなりませんでした。
「ソーニャさん……」
ソーニャは顔を上げません。ミゼンは彼女に取り縋って、しゃくりあげながら泣き出しました。
マロイはミゼンとソーニャを見守りながら優しく言いました。
「ソーニャは不遇ではあったが、最期の最期そなたのように涙を流してくれるものと出会い、その涙のために真闇から救われたのじゃ。もしソーニャを看病した医師が泣かなかったなら、彼女はデーラに対する憎しみに縛られたままでいなければならなかったことじゃろう」
「でも、ソーニャさんは……」
「さよう、今も苦しんでおる。デーラへの憎しみがあるためにではなく、デーラを殺めたことへの後悔があるためじゃ。むろん、憎しみもたやすく消せはすまいが……怒りや悲しみや悲嘆、のみならずひとかたならぬ後悔がある。ソーニャは今、絶望に取りつかれているのじゃ。しかし、苦しんでいるからこそ希望がある。許しを学ぶことができる」
マロイは人ひとり通らない路地裏を眺めました。じめじめした不衛生な石畳は、ソーニャの心を少しずつ蝕んでいるに違いなのです。
「ソーニャはカーラの弟として貴族の家に生まれ、ゆくゆくは当主として領地を治めてゆくことになる。そこへ、捨て子として預けられるのがデーラじゃ。領主夫妻は彼女を、カーラとソーニャの小間使いにするじゃろう。完全に、デーラを支配できる立場に置かれることになるのじゃ。――さて、ソーニャは、デーラをどう扱うのがよいじゃろうか? 」
マロイは片目をつむってミゼンに問いかけました。ミゼンの丸い頬を、涙の粒が輝きながら転げてゆきます。
「ソーニャさんが……幸せになるために……」
「さよう。復讐のために、仕返しすべきじゃろうか? それを咎めることのできるものは、恐らく誰もいないじゃろう」
「マロイ、幸せとは……幸せって、何なんでしょう? 」
ミゼンは砂漠の町の、ミトのことを思い出していました。マロイと出会った人々のうちで、心から幸せそうでいたのがミトだったのです。朗らかで優しく、安らかで、その人生は決して幸福なものではなかったと誰もが思うでしょうが、ミトはあの御堂の中で、満ち足りて過ごしているようでした。アスタとケンのために、静かな祈りを捧げながら。
「ミトさんは、幸せそうだった……」
「そうじゃな。ミトは、アスタとケンの苦しみを救ってやれぬことを悲しみにしてはおるが、あの暮らしに十分な幸福を見出しておる。だから聖者なのじゃ。両親と別れて戦へ出向き、刺し殺されて万の骸のひとつとなり果てたが――たとえば、デーラと比べてみるかのう。生活の豊かさという意味では、彼女に勝るものはなかなかいない。家の名だけで体面を保っている貴族などよりは、よほど恵まれておる」
「デーラさんは、困っても苦しんでもいなかったと思います」
ミゼンは焼き潰されたカーラの小さな星を思い浮かべました。これまでに、いったいいくつの星がああやって消えたのだか、デーラに思い出せはしないでしょう。
「でも、デーラさんのために不幸にあった人は大勢います」
「では、周囲の人間をいくら苦しめても足らぬようなデーラのあの振舞いは、何が理由じゃろうか? 」
「デーラさんは、自分のことしか考えていないから……」
ふん、またこれっぱかかい、とデーラの言葉が蘇ります。カーラの能無し――。とっととクビにしておくんだったよ――。
ミゼンは顔を上げました。
「デーラさんは、満足していないのだと思います。どんなにお金があっても……」
「そのとおりじゃ」
「ミトさんは、満足していたんだ……自分の命に……」
マロイが頷きました。とても優しい目がミゼンを見つめています。
ミトは、自分の命を奪ったケンのことを、どう思っていたでしょう。よく考えて、ミゼンは言いました。
「ソーニャさんは、――デーラさんに優しくしてあげればいいんじゃないでしょうか――」
「そうじゃな。しかし恐らく、デーラはそれに感謝などせず、青年貴族の妻の座を夢見ることになるじゃろう。ソーニャ――次の名はラファエロだそうじゃ――は当然、心に決めた別の娘と婚約を交わすことになる。デーラはそれに絶望し、ラファエロを刺し殺すじゃろう。ソーニャがデーラを刺した因果が巡ってくるのじゃ」
ミゼンの顔を見て、マロイはちょっと笑ってから続けました。
「理不尽と思うかね? しかし、命というものは誰のものであっても、奪ってよいものではないのじゃ。よいか、人間の体というものは、小石ほどの弾丸が貫いただけで血が吹き出して息が絶える。死ぬのはたやすいが、人ひとりが生まれるのには、ありとあらゆる方法で運命を編み上げねばならぬのじゃ。ほれ――」
マロイは尖った石を拾い、石畳に描きはじめました。マロイが石で描いた線はきらきらと白く輝く光の軌跡になってミゼンたちを照らしました。
「たとえば、ミトがアスタのもとへ生まれるためには、アスタと、アスタの夫となる男が同じ時代に生まれ育ち、巡り会わねばならぬ。会うだけでなく、それなりの交わりが必要じゃ。信じられぬ確率なのじゃ。世界には、同じ時代に生まれ合うても出会うことすらなく終わる人間の方がずっと多いのだから」
「本当だ」
ミゼンは目を丸くしました。
「それに、アスタさんが生まれるためには、アスタさんのお父さんとお母さんも――」
「さよう、同じじゃ。これを遡れば遡るほど、ひとつの命のためにどれほどおびただしい数の人間が関係しているかが分かるじゃろう。これとまったく同じことが、二度も三度も起こると思うかね? 命を授かることほど、奇跡と呼ぶにふさわしい出来事はないのじゃ」
マロイの描いた線の光を感じたのでしょうか、、ソーニャが身じろぎし、ゆっくりと顔を上げました。自分自身の心に傷つけられ、泣くこともできなくなったその瞳に、少しの煌めきが生まれたようでした。
ひとりの人が生まれてくるためにマロイが遡って描いた家系図は地面いっぱいに広がり、辺りは輝きに満ちて眩しいほどです。
ソーニャは光の中に消えてゆきながら、一瞬だけミゼンと目を合わせたようでした。凛とした瞳の、美しい少女の面差しは、そうと分かる間もなく見えなくなってしまいました。
「ラファエロが生まれた」
マロイが厳かに言いました。
「祝福を贈ろう、彼が人生をまっとうできるように。その生の終わりがどんなものであれ、許しを学べるようにと」
「許しですか……」
「ラファエロは刺し殺されるが、彼はそれを許さねばならぬ。許すとは、世にある中でもっとも優しく、もっとも強く、もっとも難しい行いのひとつじゃ。許すことができるものは、まず間違いなく幸福でいるはずじゃ」
マロイは石を置いて歩きはじめました。
「幸福とは心が満ち足りているときの呼び名じゃ。よいか、財産が、ではない。裕福なものが幸福に見えるのは、未来に不安がないように思えるからじゃろう。いかに富み、いかに素晴らしい伴侶を得、名声に恵まれたとて、本人がそれをよしとしなければ幸福の条件にはなり得ぬのじゃ。これが幸福の正体であり、不幸の正体でもある。つまり――」