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ミゼンの旅

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 マロイは立ち上がり、白い石の階段をゆっくりと上りはじめました。
 「彼は、様々な人との交わりの中にあってこそ苦しく、その苦しみをこそ克服せねばならぬことに気がついた。それで山を下りて家へ戻り、結婚もし、子どもを育てたのじゃ」
 マロイはそれきりサヴィアの息子の話をやめてしまいましたが、図書館の扉を開いて中へ歩いていくマロイの横顔を見ながらミゼンは思いました。
 マロイが彼としか呼ばなかったサヴィアの息子とは、本当はマロイ自身のことだったのではないでしょうか――。

 扉の中は、図書館ではありませんでした。紙やインクの匂いはほんのちょっともせず、代わりに眩暈を誘うような、めちゃくちゃな甘い熱気がたちこめています。何種類もの香水の香りが混じりあっているのです。狭く薄暗い、埃っぽい廊下は凍えるほど寒く、灯りひとつありません。時折ある窓にはみんな装飾ガラスではめ殺しになっていて、赤紫や黄土色に透いた日の光が、そこらじゅうに不気味な斑模様をつけていました。
 出入り口に布を垂らして仕切られた小さな部屋のひとつをミゼンがちらりと窺うと、中から黄色く濁った人の目に見つめ返されました。その人に、ミゼンの姿が見えているわけではありません。虚ろな目をして膝を抱えて、体がそちらに向いているからそちらに向かって目を開けているというふうなのです。肌はただれたようにひどく荒れ、髪はまばらです。崩れた鼻筋で顔立ちははっきりしませんが、小さな顎と細い体で女の人だと分かるのでした。
 「ここはデーラの見世物小屋じゃ」
 歪んだ笑い声がどこかから響いています。マロイはその声と自分の声とが混ざるのを恐れるように、小さく囁きました。
 廊下の突き当たりは左右に分かれていて、左の扉は舞台袖に繋がっているようです。ミゼンとマロイが図書館の扉から入ったのは、見世物小屋の控え室が集まる廊下だったのです。扉は薄く開いていて、中から笑い声と野次、ときどき悲鳴が漏れだします。体中に入れ墨した男の人が、松明から口に吸い入れた火を大きな輪にして吐き出します。その次の火は長く長く吹き出て、龍のように暴れました。
 扉を開けたすぐそばで、出番を待っているのでしょうか、若い女の人が水晶の玉をいくつも掴んで舞台を見つめています。火吹き男の芸はまだ続きそうです。女の人は自分の芸の練習をはじめました。水晶をひとつずつ口に入れ、蛇が鳥の卵を飲み込むように、ごくんごくんとみんな飲んでしまいます。最後のひとつは喉の下のあたりで止まって、そこだけが丸く膨れています。女の人はそれから順番に水晶を吐き出し、火吹き男と入れ替えに舞台へ出ていきました。
 「見ていくかね? 」
 マロイに聞かれましたが、ミゼンは首を横に振りました。舞台に出演する役者も、見ている観客も、みなとても楽しげで、満足そうです。マロイの言う、デーラという人の記憶ではそうだったのでしょう――けれどもそれは、なんだか背筋の寒くなるような笑顔に見えるのでした。まるで、細胞のひとつひとつまで人間そっくりに作られた、笑い顔の人形みたいなのです。顔に張りついたその表情は、心とは繋がっていないかのようでした。
 舞台袖の扉の向かい側の扉が、デーラのいる部屋です。マロイが取っ手を引き開けるなり、ちりんちりんという小さな音がミゼンに聞こえました。デーラが真っ赤に染めた長い爪で、お金を数えているのです。黄金の台に大粒の緑や紫や黄色の宝石をつけた指輪をいくつもはめた両手の指が、太った蜘蛛の脚みたいにぐにゃぐにゃ動きます。
 デーラは目の前に開いた皮袋の金貨を三度数え終わると、爪と同じ色に塗った蛙そっくりの唇から葉巻きの煙を吐き出しました。
 「ふん、またこれっぱかかい。カーラの能無しにも困ったもんだね。とっととクビにしておくんだったよ――客を取らせるために、あんな上等な部屋までくれてやってさ。ま、あんなに顔が崩れちゃ仕方ないやね」
 デーラは机の上の文箱を探って紙を一枚取り出しました。「あやかし館の主デーラ」という署名の隣に、小さな星が描かれています。字の書けない人が名前の代わりに使う記号なのです。デーラはカーラの星を、葉巻きの火で焼き潰しました。
 「ああ、せいせいした」
 それから人を呼んで、クビにしたカーラを追い出すようにと言いつけました。ミゼンは急いで廊下に飛び出しました。カーラというのは、ミゼンが見世物小屋で最初に見た女の人でした――。
 「これはデーラの記憶じゃ」
 マロイは引きずられていくカーラに追い縋ろうとしたミゼンを引き留めました。
 「本当のカーラは、もうここにはおらぬ。案ずることはない」
 「それじゃ、どこに――? 」
 「そなたが思っているよりは、安らかで温かい場所じゃ。ここにはいない。今は――そうじゃな、もうすぐ弟か妹が産まれるというので、その日を今か今かと待っておる頃じゃろう」
 ミゼンは目をぱちくりさせました。マロイの話も、この旅も、不思議なことばかりが集まってできていますが、今度のことは今までよりいっそう、不思議な話のようにミゼンには思えました。
 あの、惨い仕打ちを受けたカーラが、どうやってそんなに幸福になったのでしょう?
 「カーラの兄弟になるものに会いに行くとするかのう。おいで」
 「マロイ、どういうことですか? カーラさんは――」
 「ふむ、落ち着かぬようじゃな」
 マロイは舞台袖へ行ける扉の前で立ち止まって、ミゼンを振り向きました。
 「では、これだけは先に教えておこう。カーラは今、カーラという名では呼ばれておらん。タリウスがミトになり、アナンがケンになったように、カーラはファリーチェという少女に生まれ変わったのじゃ」
 「生まれ変わった……」
 「そなたがわしとともに旅をして出会った人々はみな――こちらでは『生者』というが――『死者』ばかりじゃ。カーラは小屋を追われて間もなく息を引き取り、デーラはソーニャという娘に刺し殺された」
 マロイは扉を開けました。そこは舞台袖ではなく、見世物小屋の外のようです。表通りからは特別の出入りの仕方をしないと入れないような、狭くて暗い路地の通りです。どの店も息をひそめるように、表向きはひっそりとしていますが、そんな中でデーラの見世物小屋は、ガスと電気の灯りを満載して今にも破裂しそうなくらい賑やかです。
 明るい見世物小屋の前で、影の塊のようにうずくまっているのがソーニャでした。抱えた膝に顔をうずめて、ぴくりともしません。ざんばらに切られた髪は脂で光り、裸足の爪先は土で汚れています。小さな体のそばに、血のこびりついた短いナイフが落ちています。それはこの見世物小屋で一番人気の、ナイフ投げの芸で使うためのものでした。
 「ソーニャは両親の借金のために見世物小屋へ連れてこられ、体を壊すまで働かされた。カーラとは違う病で、肌はただれんが胸をひどく病んでな。顔が崩れぬならと、なおも客を取らせようとするデーラにせめて一矢報いようと、ナイフ投げの男から盗んだナイフでデーラを刺し殺したのじゃ。捕らえられて裁判にかけられたが、判決を待つ間に看病のかいなく亡くなった」
 「ソーニャさん」
 ミゼンは顔を上げないソーニャの肩に手を置いて、そっと揺すりました。
作品名:ミゼンの旅 作家名:れい