ミゼンの旅
そばを走り過ぎた影の子どもとぶつかりそうになって、ミゼンは思わずマロイにしがみつきました。自分の顔に手を触れてみて、顔かたちを確かめてみることもしました。目に見えているものが何ひとつ信じられなくなりそうです。
「サヴィアじゃ」
ある家の勝手口で立ち話をしている、ひとりだけ影ではない女の人をマロイが指しました。サヴィアは自分と同じように、ふっくらとした体つきの影人間と夢中になって何か話しています。いえ、話しているというより、サヴィアがひとりでまくしたてているのを、前にいる影人間が聞いているというふうです。何を話しているのかは、すぐに分かりました。サヴィアは早口でしたが、声が大きかったものですから。
「――ええそうなんですの、今度うちの息子は、クロッコの大学へ入ることになって。まったく人手の足りないときに、困ってしまうわ、ねえ。ほら、医学部って、学費もずいぶんするっていうじゃありませんか……」
影人間はひとしきりこの話を聞くと、するりと形を変えました。今度は少し細長い、男の人のようです。
サヴィアは話を続けます。
「まあ、宅ではわたしも主人もあの学校を出てますでしょ、だからあの子、悩んだこともあったようなんですの……」
サヴィアは話し続けますが、影はまた形を変えました。すらりと腰のくびれた、若い女の人と分かる影です。
「それにしても、あの雑貨屋のお給料ったら! ばかばかしくって、わたし、文句を言ってやったんです! こんな額、町を一日中歩き回れば拾えるでしょうよって! ねえ、ねえ、そうでしょう? あなた、ちゃんと聞いてらして? 」
サヴィアが怖い顔をして詰め寄ったので、別の形になろうとしていた影は変わりかけのどろどろした形のままがくんと首を傾けて、どうやら頷いたようでした。
ミゼンはぞっとしました。
「サヴィアは大いなる自負と偏見の持ち主じゃ」
マロイは後ずさったミゼンを無理に前に行かせたりはせず、丈の長いマントの中へ庇ってくれました。厚い布地から、古い本と同じ匂いがしました。
「ある意味では幸せじゃ。周りの人間はすべて、自分の考えからはみ出さぬところに生きていると思っているのだからな。自分だけが不幸と思うのは、自分以外はみな自分にかしずくものと思っているのと同じくらいの傲慢じゃ。サヴィア本人がそれを認めることは決してないじゃろうが」
「どうして影みたいな人ばかりなんでしょう。僕、怖いです」
「シェムの反対なのじゃ、ミゼン。サヴィアは社交家で明るい婦人のように見えるが、本当は誰のことも見てはおらん。自分の心を満たすことのほかに、大事なことは彼女には何もないのじゃ。自分がどういう人間なのかも、相手が何を言うかも、さらに言えば相手が誰なのかも、サヴィアにはどうでもいいのじゃ」
マロイとミゼンは影の後ろを行き過ぎましたが、サヴィアはふたりには目もくれません。サヴィアの色の薄い目の真ん中には丸く艶のない瞳がはっきりと見え、それは忙しなく膨らんだり縮んだりしながら、話し相手を飲み込んでしまいそうでした。
「心が小さく、こらえがきかず、考えの浅いものほど、短気で、うぬぼれて、わがままなものだ。本性を明かすなら、彼らほどの甘ったれはおらん。臆病で、自力で自分の心を覗き込む勇気のないものは、怒りや不満を垂れ流して周りに押しつけるのじゃ。考えてみるがいい、気短かですぐに声を荒げるものが、そうするのはなぜか」
「ええと」
ミゼンはサヴィアを振り返りました。ちょうど、お昼のための魚のパイを焦がしてしまったとかで、サヴィアが誰かに金切り声を出しています。相手は、サヴィアの口ぶりからして、クロッコの大学へ入ることになっているという彼女の息子のようです。
パイ焼きは、本当はサヴィアの仕事です。けれど立ち話に夢中になっていつまでたっても仕度が整わないので、サヴィアの息子が暖炉でスープを温めながらパイを焼いたのです。サヴィアは中に詰める魚の身のほぐしかたや、クリームの和えかた、パイの畳みかたに火の加減のしかた、さばいた魚の皮や骨や内臓の始末にまで、息子のしたことをいちいち尋ねているのでした。
「それで分かったわ! そんなことをしたら、焦げて当然じゃない……あなたいったい、いつからそんなにお利口さんになっちゃったの? 」
息子の形をした影は、サヴィアの前でじっとしています。それは母親の勢いに押されて怯えているようにも、愛想を尽かして好きに言わせているようにも見える姿でした。
「怒りと恐れは無縁ではありえない」
マロイはミゼンに言いました。
「サヴィアが自分の仕事を放っておいたことを棚に上げて息子の失敗を責めるのは、本当はそのことが後ろめたいからじゃ。……いや、もしかしたら、単にまずいパイを食べねばならんことが不愉快なのかもしれぬ。どちらにせよ、本来なら彼女が持つべき責任を放棄したのを指摘されれば、あの女はますます怒り狂うことじゃろう。しかしよく覚えておくのじゃ、人と人との摩擦は、怒ったところで何の解決もない。――後ろめたくとも、怖くとも、また不愉快であろうと、冷静に話をつける方がよほどましじゃ。たやすくはないがな」
マロイは広場にある石造りの大きな建物についた広い階段に腰をかけました。窓がいくつもついた美しいその建物は、国で一番立派な古い図書館です。マロイは本を読み聞かせるように、サヴィアの人生をミゼンに語りはじめました。
「サヴィアは終生、ああいう性格じゃった。晩年は息子とその妻に世話されたが、万事あの調子じゃから、死を惜しむものはおらなんだ。サヴィアの息子は幼い時分こそ母親の言うことを殊勝に聞いておったが、大人になるにつれて筋の通らない言い分を見抜くようになり、とうとう愛想を尽かしてしもうたのじゃ。それでもそれ以上のことはせず、つまり、母親を見捨てなかったのは大したものじゃ。それが彼への修行だったのじゃな」
「修行? 」
「さよう。すなわち、不愉快な縁によって許しを与えることや、心を乱さぬことを学ぶ修行じゃ。だから彼は、サヴィアの子として生まれた。輝く宝を得るためには、それそのものでは照りも光りもしない砥石も必要なのじゃ」
マロイは息を継いで続けました。
「短気、うぬぼれ、わがままに暴力。いずれも人に対する甘えの象徴であり、相手を支配しようという魂胆が含まれておる。そして彼らがそれを持たねばならぬのは、ありもせぬ刃先から己を守ることに執心しているからなのじゃ」
「息子さんは、あのあとどうなったのでしょう」
「サヴィアはクロッコの大学へ入るのが決まったと言っておったが、あれは少々先走った見解でな。彼は結局大学へ行くことは叶わず、それに対してサヴィアがうるさく文句を垂れたので、何もかも嫌になって一度は家を出たのじゃ。行くあてがあるわけではなく、生きることはままならぬ。彼は山へ入り、野草や木の実や小さい獣の肉で命を繋ぎながら、日がな一日考え続けたのじゃ。なぜ、こんなにも苦しいのか、とな――山での暮らしは彼から余分な欲を拭い去ったが、満足のいく答えはそこでは得られなかった。得たのは癒しと、ひとつの気づきだったのじゃ」