ミゼンの旅
マロイが言いました。
「この御堂は、アスタの子を殺した青年の記憶にあるものじゃ」
大きな十字架の下で金髪の若者がひざまずいて祈りを捧げています。そのそばで彼に何か話しかけていた若者が、ミゼンとマロイを振り向きました。それで、この町でふたりに注意を向けた人は彼が初めてだったことに、ミゼンは気がつきました。
「こんにちは」
彼は両手を広げて朗らかな挨拶をしました。アスタに似た、黒い髪の若者です。マロイは手を上げて挨拶を返しました。
「ミト、ケンはどうか? 」
「まだ、わたしに気がついてはくれません」
「さっきアスタを訪ねたのだが」
マロイが言うと、ミトは眉を下げた、寂しい微笑を浮かべました。
「母を気にかけてくださってありがとうございます。泣いてばかりでは、心は晴れないのですが……」
ケンは三人には気づかない様子で、美しい祈りの言葉を唱え続けています。髪の垂れかかる頬は白く、まるで少女のような若者です。薄く開いた青い目は、あの空のように広く健やかなまなざしをしているのですが、眉間に深く刻まれた皺は誰のことも、いえ、ケン自身のことを決して許しはしないようでした。
「この人は、どうしてお祈りしてばかりなのですか」
ミゼンは尋ねました。ミトは小さなミゼンのために、少し膝を折りました。
「わたしはケンに刃で刺されました。仕方がない、彼も教団に駆り出された兵士のひとりでしたから、わたしと対峙した以上、そうするよりほかはなかったのです。わたしは剣も槍もからっきしでね。戦に出たからには、どんな心持ちだろうがきっとケンはわたしを殺さなければならなかったんだ。悪いことをしました」
ミトは御堂を見回して、安らかな旋律の歌を一節口ずさみました。
「ケンが祈りの合い間にときどき歌うのです。わたしも覚えてしまいました」
「素敵な歌ですね」
「でしょう。ケンは自分の信ずる神をこの美しい歌で讃えながら、勇んで邪教を討ち果たそうと戦場へ出たのです。しかし、わたしが黙って彼に殺されてしまったので、彼は自らの行いを疑うようになった。これほど安らかな歌に語られる恵み深い神が、信ずるものが違うというだけの理由で人の命を、刃を向けた相手に体を投げ出すようなものの命を奪うというようなことを、果たしてお喜びになるだろうかとね」
ミトは膝をついてケンの肩を抱いてやりました。長いことそうして祈りを捧げていたケンの体は、もう石の彫刻のように固まってしまっているのです。
「ケンはわたしを丁寧に埋めてくれました。そのあとすぐに、褒賞を断って戦場を去り、生まれ故郷のこの御堂で残りの人生のすべてを祈り暮らしたのです。わたしと、わたしの両親と、あの戦で命を落としたすべての人のために。一生涯、罪を背負ってゆくことを彼は決めてしまった。彼の祈りのおかげで、わたしはもう十分に救われました。もう償いは必要ないのです」
「害を与えたものが自ら償いをやめることはできぬ」
ミトと別れてまた歩きはじめながら、マロイはミゼンに言いました。
「そのものが誠実で、善良であるほどじゃ。ミトがミトに生まれる前にも、実は似たことがあってな」
「生まれる前? 」
「ミトがミトになる前は、タリウスという男だったのじゃ。タリウスはちょっとした手違いから、友人だったアナンという男を死なせてしまった。そのアナンが、ケンがひとつ前に生きた人生じゃ。タリウスは深く悔いて今ケンがしておるように終日祈り暮らしたが、ひとつ違うことは、アナンはミトのようには、タリウスを許すことができなかったのじゃ。それで、今度はミトが殺され、ケンが祈るという人生を与えられた」
「ミトさんは、ケンさんを許してあげていました」
「そうじゃ。ミトは死ぬ直前に、ケンを許した。無抵抗に刃を受け入れたことに驚いたケンに、ほほえみかけたのじゃ」
御堂の扉が開きます。ふたりを見送るために、ミトが挨拶しました。
「ごきげんよう、賢者マロイと旅人のミゼン。傍らの声に気づかれますように」
扉の外は、北の港のようでした。大きな船影が海を滑り、出港を知らせる金の鐘がからんからんと鳴らされます。賑やかな市場には人が溢れ、そのざわめきはしんとした御堂の気配に慣れたミゼンの耳には痛いくらいです。
おばあさんがひとり、花の飾られた出窓から通りを眺めています。ミゼンと目が合うと、きゃっと言って頭を引っ込めてしまいました。
「シェムじゃ」
マロイは手を上げて挨拶しました。シェムは返事をしませんでしたが、きれいなハンカチをわずかに振ってマロイに応えました。
「内気で、恥ずかしがりなのじゃ。なかなか思ったことを口に出せんでな」
「僕たちに気づいているみたいでした」
「シェムは内気だが、根が善良で人のことをよく見ていたのじゃ。シェムの記憶にある町は、賑やかで明るくてなあ。わしもここへ来るのは楽しい」
空から色とりどりの花びらが虹のかけらのように降り、縞や水玉の模様のついた丸い風船がきらきらと飛ぶと、大きな歓声が上がりました。春のお祭りの日なのです。ミゼンがそっと見ると、シェムはリボンでできた花の形の飾りをいくつも窓辺につけて、嬉しそうににこにこしているのでした。
「シェムは親切で、みなに好かれた人じゃった」
マロイはひらひらと落ちてきた薄紫色の花びらを掌で受け止めました。
「だが恥じらいが過ぎて、受け止めるべき好意に気がつかなかった。最期はたったひとり、誰にも悟られずに亡くなったのじゃ。あともう、半歩が足らぬ」
「賢者になるには? 」
「聖者になるには、じゃな。シェムにはその方が近い」
マロイは道に降った花びらを踏まないようにまた歩きはじめました。赤や黄色や白色の、まろやかな形をした花びらはしばらくすると、小さな光の粒になって空へ還ってゆくのでした。
「考えて、考えて賢者が辿り着いた答えに、心の正しさによって引き寄せられるのが聖者じゃ。聖者は優しいが、賢者が優しいとは限らぬ。賢者は賢いが、聖者に必ずしも知恵があるとは限らぬ。そしてそんなことは、お互いにどうということではない」
「聖者になると、どうなるのですか」
「そうさな。聖者は愚者の目を開かせようと、そばで呼びかけるようになる。あのバラの御堂にいた、ミトのようにじゃ。愚者が彼らの声に気がつくことは稀じゃ。愚者は例外なく、心に振り回されておるからのう……ごらん、いまひとり、『恥』を持った愚者の記憶が現れてきた」
通りを一本抜けるとお祭りの気配はもう消えて、ミゼンとマロイの周りには、歓声の代わりに生活の音が満ちてゆきます。魚を競りにかける声がし、ごとごとと曳かれてゆく荷車には、緑色のかぼちゃが山のように積まれています。酒場の錆びついた看板がきいきい動き、宿屋の大きな窓を、主人がきれで拭いています。
けれど、鮭を競り落とした人も、荷車を引く人も、酒場に出入りする人も、宿屋の主人も、もう誰もかれもが、ここでは黒い影になって見えるのでした。目も鼻も、口もありません。地面に映る影とそっくり同じ姿になって。みなは暮らしているようでした。