ミゼンの旅
ミゼンは、気がついたらそこにいました。乳色の柔らかなもやが揺れただよう、森の中のようです。ころろころろと、虫のすだくのが聞こえます。
夜か昼かは分かりません。いつからそこにそうしていたかも、ミゼンは思い出せませんでした。不思議な、こころよい気持ちだけがします。このまま永遠にここにいるようにと言われても、ミゼンはそれを、全然構わないと思ったことでしょう――。
おおい、おおいと呼ぶ声がします。誰が呼んでいるのか、姿を見たいと思った途端に、その人はミゼンの目の前に立っていました。
真っ白な髭を長く垂らしたおじいさんです。古く日焼けした頭巾をかぶっていてよく見えませんが、きっと髪も白いのでしょう。銀色の静かな目が、ミゼンを見つめています。ゆっくりと固まってできた氷のような、清らかなまなざしです。
「わたしの声が聞こえるのだね」
目と同じくらいに落ち着いた声で、おじいさんは言いました。顔つきはほとんど変わりませんでしたが、ミゼンが頷く間に、彼はわずかにほほえみを浮かべました。
それはおじいさんのする、一番大きな喜びの表情でした。
「わたしはマロイ」
祈りを捧げるような調子で、マロイは言いました。
「幸福を知るもの、という意味じゃ」
「僕、ミゼンです」
とミゼンも名乗りました。
「ミゼン……確かにそうです。意味は分からないけど」
「ミゼンか……」
マロイは、考えごとをするときの癖なのでしょう、綿雲みたいな髭を、ふわふわとなでました。
「わしは、なぜ君にその名がついたかを知っている」
マロイはミゼンを促して、どこへともなく歩きはじめました。
「じゃが、今君にそれを話しても、君は訳が分からなくなるばかりじゃろう。ものごとには、知るにふさわしい順があるのじゃ」
ミゼンはマロイの背中を追いかけました。
「まず、マロイの名前? 」
「そのとおり」
「それじゃ、次は」
「わたしが君をどこへ伴っていこうとしているかを教えよう」
マロイは背の高い人で、それに前ばかり見て話しているのに、まるですぐ隣で語りかけられているように、ミゼンにはマロイの声がよく聞こえるのでした。
マロイは言いました。
「ミゼン。不幸の正体を暴いてみたいとは思わぬかね」
「不幸の正体? 」
「さよう。わたしが山へ入ったのも、もとはといえば幸不幸の不平等に嫌気が差したからじゃった――幸福と不幸とは、別のものだと思っていた頃じゃ」
「別のものではないのですか」
ミゼンが言うと、マロイは笑いました。
「その答えは、おいおい」
マロイが一歩進むごとに、周りの景色が変わっていきます。ミゼンはきょろきょろしながら聞きました。
「僕、もしかして夢を見ているんでしょうか? 」
「夢か……」
マロイは呟きました。
「どちらかといえば、夢が覚めたあとの世界――かもしれんのう」
肌にひんやりとした森の空気は熱く埃っぽくまとわりつきだし、いつの間にかふたりは、砂漠の真ん中の町を歩いていました。
「彼女をごらん」
一軒の家の中で、女の人がうつむいて泣いています。喪服のような黒いベールをかぶって、一心に泣いているのです。家の扉には、彼女の名前でしょうか、「アスタ」と書いてあります。
マロイはアスタの暗い部屋の中を、優しい目で覗き込みました。
「あの婦人は、戦で息子を亡くしてから泣いてばかりおる」
「お気の毒ですね……」
「では、もう少しこの町を歩いてみるかのう」
マロイはアスタの家の前を離れて、ぶらぶらと土壁の町を歩きはじめました。静かな町です。行き会う人もありません。人の気配だけが、建物を隔ててします。家と家の間には色とりどりの洗濯物がはためいて、遠くの方から物売りの声もしてくるのです。
「ここは、アスタの記憶の中の町じゃ」
店番のいない屋台で樽いっぱいの胡椒の粒や黄色いマルメロを眺めながら、マロイが言いました。
「毎日うつむいて、顔を上げることも忘れてしまったアスタは、誰かと会うことも忘れてしまったのじゃな。もっとも、顔を上げたとしても、泣いてばかりでは何も見えなかったかもしれんが……アスタの目で見れば、ここは土砂降りかもしれん。誰ひとり、自分と同じ世界が見えるものはいないのじゃ」
「誰ひとり? 」
「さよう。だから人は、自分と似た世界が見えているようだと思った瞬間そのものを愛することができる。しかし、反目するものが自らの弱点を克服する助けになることには、立ち向かっているとき人はなかなか気づかん」
マロイは石を積んで作られた井戸を覗き込み、ミゼンを呼びました。ミゼンは反対側から中を覗きました。
水にはふたりの顔が映っていましたが、マロイが黒い小石を投げ込むと、一度乱れた水面がしんとする頃、別の人が映っていました。きれいな女の人です。鏡の前でお化粧しているみたいに一所懸命こちらを覗いて、目をぱちぱちさせています。
「これはアデル。アスタの妹じゃ――葬儀に出かけるために化粧をしておるのじゃ」
マロイは悲しそうな目をして、アデルが頬紅をはたくのを見ています。
「アスタの子は、アデルに言われて戦へ出たのじゃ。おまえも戦へ出て、母さんや自分のことを守れとな。しかし気持ちが優しかったために、どうしても向かってきた相手を殺せずに戦死した」
「アデルさんは、どうしてそんなことを? 」
「『不幸』だったからじゃ、ミゼン。アデルは姉より器量がよく、たくさんの求婚者の中から一番の金持ちを選んだ。何不自由のない暮らしをしておるが、子どもがなかなか生れなかった……なんでもかんでも望みどおりになるのが人生ではないのじゃ。逆にアスタは、たったひとり自分に求婚してきた男のもとへ嫁いだ。あまり裕福とは言えんが、息子が生まれ、食べてゆくこともできる。アスタは満足しておった。アデルには、それが気に入らなかったのじゃ」
マロイは井戸から離れて、また通りを進みはじめました。ミゼンは慌てて井戸を見ましたが、もう中にアデルの姿はありませんでした。
「嫉妬じゃ。それがアデルの不幸の原因じゃった。あのものは満足も感謝も知らぬ。自分ほど裕福でも美人でもないアスタがなぜ幸せでいるか、姉から学ぶこともしなかった。ふたりの立場が逆だったとしても、恐らく結果は同じじゃったろう。アデルは不幸で、アスタは幸福だったはずじゃ」
「でも、アスタさんは」
ミゼンは通りを振り返りました。あの暗い部屋の中で、アスタはまだ泣いているに違いないのです。
「今、あまり幸せそうに見えなかったけど……」
「アスタは息子を亡くし、その悲しみを克服する前に命を絶ってしまったのじゃ」
マロイは淡々としています。それは涙を流す代わりにする、マロイの悲嘆の顔でした。
「その一点だけに心を奪われ、思慮を閉ざしてしまったのじゃ。残念だが、――本当に残念だが、アスタはアデルと同じように愚者でいなくてはならぬ。アデルはまだ生きておるが、姉が自殺したことで一番傷ついたのは他ならぬ自分だというあの考えは、死んでからも治らんじゃろう」
町外れには小さな御堂がありました。桃色の蔓バラが白い壁を飾り、大きな窓からかすかに音楽が聞こえます。
夜か昼かは分かりません。いつからそこにそうしていたかも、ミゼンは思い出せませんでした。不思議な、こころよい気持ちだけがします。このまま永遠にここにいるようにと言われても、ミゼンはそれを、全然構わないと思ったことでしょう――。
おおい、おおいと呼ぶ声がします。誰が呼んでいるのか、姿を見たいと思った途端に、その人はミゼンの目の前に立っていました。
真っ白な髭を長く垂らしたおじいさんです。古く日焼けした頭巾をかぶっていてよく見えませんが、きっと髪も白いのでしょう。銀色の静かな目が、ミゼンを見つめています。ゆっくりと固まってできた氷のような、清らかなまなざしです。
「わたしの声が聞こえるのだね」
目と同じくらいに落ち着いた声で、おじいさんは言いました。顔つきはほとんど変わりませんでしたが、ミゼンが頷く間に、彼はわずかにほほえみを浮かべました。
それはおじいさんのする、一番大きな喜びの表情でした。
「わたしはマロイ」
祈りを捧げるような調子で、マロイは言いました。
「幸福を知るもの、という意味じゃ」
「僕、ミゼンです」
とミゼンも名乗りました。
「ミゼン……確かにそうです。意味は分からないけど」
「ミゼンか……」
マロイは、考えごとをするときの癖なのでしょう、綿雲みたいな髭を、ふわふわとなでました。
「わしは、なぜ君にその名がついたかを知っている」
マロイはミゼンを促して、どこへともなく歩きはじめました。
「じゃが、今君にそれを話しても、君は訳が分からなくなるばかりじゃろう。ものごとには、知るにふさわしい順があるのじゃ」
ミゼンはマロイの背中を追いかけました。
「まず、マロイの名前? 」
「そのとおり」
「それじゃ、次は」
「わたしが君をどこへ伴っていこうとしているかを教えよう」
マロイは背の高い人で、それに前ばかり見て話しているのに、まるですぐ隣で語りかけられているように、ミゼンにはマロイの声がよく聞こえるのでした。
マロイは言いました。
「ミゼン。不幸の正体を暴いてみたいとは思わぬかね」
「不幸の正体? 」
「さよう。わたしが山へ入ったのも、もとはといえば幸不幸の不平等に嫌気が差したからじゃった――幸福と不幸とは、別のものだと思っていた頃じゃ」
「別のものではないのですか」
ミゼンが言うと、マロイは笑いました。
「その答えは、おいおい」
マロイが一歩進むごとに、周りの景色が変わっていきます。ミゼンはきょろきょろしながら聞きました。
「僕、もしかして夢を見ているんでしょうか? 」
「夢か……」
マロイは呟きました。
「どちらかといえば、夢が覚めたあとの世界――かもしれんのう」
肌にひんやりとした森の空気は熱く埃っぽくまとわりつきだし、いつの間にかふたりは、砂漠の真ん中の町を歩いていました。
「彼女をごらん」
一軒の家の中で、女の人がうつむいて泣いています。喪服のような黒いベールをかぶって、一心に泣いているのです。家の扉には、彼女の名前でしょうか、「アスタ」と書いてあります。
マロイはアスタの暗い部屋の中を、優しい目で覗き込みました。
「あの婦人は、戦で息子を亡くしてから泣いてばかりおる」
「お気の毒ですね……」
「では、もう少しこの町を歩いてみるかのう」
マロイはアスタの家の前を離れて、ぶらぶらと土壁の町を歩きはじめました。静かな町です。行き会う人もありません。人の気配だけが、建物を隔ててします。家と家の間には色とりどりの洗濯物がはためいて、遠くの方から物売りの声もしてくるのです。
「ここは、アスタの記憶の中の町じゃ」
店番のいない屋台で樽いっぱいの胡椒の粒や黄色いマルメロを眺めながら、マロイが言いました。
「毎日うつむいて、顔を上げることも忘れてしまったアスタは、誰かと会うことも忘れてしまったのじゃな。もっとも、顔を上げたとしても、泣いてばかりでは何も見えなかったかもしれんが……アスタの目で見れば、ここは土砂降りかもしれん。誰ひとり、自分と同じ世界が見えるものはいないのじゃ」
「誰ひとり? 」
「さよう。だから人は、自分と似た世界が見えているようだと思った瞬間そのものを愛することができる。しかし、反目するものが自らの弱点を克服する助けになることには、立ち向かっているとき人はなかなか気づかん」
マロイは石を積んで作られた井戸を覗き込み、ミゼンを呼びました。ミゼンは反対側から中を覗きました。
水にはふたりの顔が映っていましたが、マロイが黒い小石を投げ込むと、一度乱れた水面がしんとする頃、別の人が映っていました。きれいな女の人です。鏡の前でお化粧しているみたいに一所懸命こちらを覗いて、目をぱちぱちさせています。
「これはアデル。アスタの妹じゃ――葬儀に出かけるために化粧をしておるのじゃ」
マロイは悲しそうな目をして、アデルが頬紅をはたくのを見ています。
「アスタの子は、アデルに言われて戦へ出たのじゃ。おまえも戦へ出て、母さんや自分のことを守れとな。しかし気持ちが優しかったために、どうしても向かってきた相手を殺せずに戦死した」
「アデルさんは、どうしてそんなことを? 」
「『不幸』だったからじゃ、ミゼン。アデルは姉より器量がよく、たくさんの求婚者の中から一番の金持ちを選んだ。何不自由のない暮らしをしておるが、子どもがなかなか生れなかった……なんでもかんでも望みどおりになるのが人生ではないのじゃ。逆にアスタは、たったひとり自分に求婚してきた男のもとへ嫁いだ。あまり裕福とは言えんが、息子が生まれ、食べてゆくこともできる。アスタは満足しておった。アデルには、それが気に入らなかったのじゃ」
マロイは井戸から離れて、また通りを進みはじめました。ミゼンは慌てて井戸を見ましたが、もう中にアデルの姿はありませんでした。
「嫉妬じゃ。それがアデルの不幸の原因じゃった。あのものは満足も感謝も知らぬ。自分ほど裕福でも美人でもないアスタがなぜ幸せでいるか、姉から学ぶこともしなかった。ふたりの立場が逆だったとしても、恐らく結果は同じじゃったろう。アデルは不幸で、アスタは幸福だったはずじゃ」
「でも、アスタさんは」
ミゼンは通りを振り返りました。あの暗い部屋の中で、アスタはまだ泣いているに違いないのです。
「今、あまり幸せそうに見えなかったけど……」
「アスタは息子を亡くし、その悲しみを克服する前に命を絶ってしまったのじゃ」
マロイは淡々としています。それは涙を流す代わりにする、マロイの悲嘆の顔でした。
「その一点だけに心を奪われ、思慮を閉ざしてしまったのじゃ。残念だが、――本当に残念だが、アスタはアデルと同じように愚者でいなくてはならぬ。アデルはまだ生きておるが、姉が自殺したことで一番傷ついたのは他ならぬ自分だというあの考えは、死んでからも治らんじゃろう」
町外れには小さな御堂がありました。桃色の蔓バラが白い壁を飾り、大きな窓からかすかに音楽が聞こえます。