康介の饅頭
康介が通っている学校の近くに、和菓子屋があった。急いで買い物をしているときなどは、見落としてしまうような、小さくて地味な店だ。
それでも、康介の父が子供の頃からそこにあったというから、案外儲かっているのかもしれない。ときおり見かける客は、高価そうな身なりの女性や、太った中年。金を持っていそうなひとばかりだった。
康介の父は自動車の修理工で、ふつうのサラリーマンよりも給料は少なかったが、ふた月に一度ぐらいは、その店の印が入った箱をお土産に持ってきてくれることがあった。
そのたびに父は、ここの饅頭が県内でいちばん、いや、日本一旨いと、まるで自分のことのように誇らしげに語っていた。
たしかに、藤色の箱に入った小さな饅頭はとても美味しくて、康介はいつも必ず4個は食べた。おなかが減っているときは、5個食べるときもあった。8個入りだから、康介が5個食べてしまうと、3個しか残らないのだが、父は康介が饅頭を頬張るのを嬉しそうに見つめていた。
それほど美味しい饅頭なのに、なぜか母は食べなかった。甘いものが嫌いなわけでないのは、いつも近所の奥さんと喫茶店でケーキを食べるのに連れていかれるので、わかっている。康介が何度勧めても、母は饅頭を目にするのも嫌だというように首を振り、しまいには機嫌を損ねてしまうのだった。
そういうときには、なんとなく両親の間に流れる空気も重たくなってしまう。康介には、父が饅頭の箱を提げて帰ってくる日が待ち遠しくもあり、また不安でもあった。
しかし、その饅頭も、もう半年食べていない。買ってきてくれるはずの父が、病気で入院しているからだ。
母はすぐに帰ってくるといったけれど、それが嘘であることが、康介にはもうわかっている。いつ帰ってくるのかと聞いたときの両親の顔が、とても悲しげだからだ。
父はもう帰ってこないのではないだろうか。子供ながらに寒気のようなものをおぼえて、康介の足どりは重くなるのだった。
ジャージのポケットに手を突っ込むと、小銭がちゃらちゃら音を立てた。お小遣いを使わずに貯めていたのだ。8個入りの箱は無理でも、康介と父のぶんの2個ぐらいなら買えるだろう。
いつものように見舞いに行った日、母が花瓶の水を換えに席をはずし、病室に父とふたりきりになった。
康介はポケットに入っていたチョコレートをこっそり父に渡すつもりだったのだが、その前に父がぽつりと呟いたのを聞いて、ポケットから手を出すことができなくなってしまった。
なにげない独りごとのつもりだったのかもしれない。しかし、乾いてかさかさになった唇が振動したのを、康介は見逃さなかった。
あの店の饅頭が食いたいなあと、父はいったのだ。
母に頼もうと思ったが、やめておいた。どういうわけか、母はあの店の饅頭が気に入らないようだったし、父が入院してからは、近所のスーパーにパートに出るようになり、いつも忙しそうで、とてもそんなことを頼める雰囲気ではなかった。
しかし、康介はどうしても父にあの饅頭を食べさせてやりたかった。おやつを我慢するのはつらかったし、母に嘘をついているうしろめたさもあったが、なんとかこうして、お小遣いを持って店にやってきた。
扉を開けたとたん、甘い匂いが鼻腔を擽って、康介はついうきうきしてしまった。
店はやはり小さかったが、椅子やテーブルもなく、無駄なインテリアもないので、小学生の康介にはますます広く感じられた。
ときどき母に連れていってもらうケーキ屋のようにガラスのケースもなく、木の棚や机に饅頭や団子、煎餅といった菓子が並べられている。菓子屋というよりも、学校の図書室のような感じだった。
男の店員がひとりいて、扉の音で顔を上げた。これも木製の大きなカウンターの向こうにいたので、康介の姿が目に入らなかったようだったが、すぐに気づいて、目を細めた。
「いらっしゃいませ」
康介はどぎまぎして、小さく首を縦に振った。母といっしょにスーパーへ行くとき、同じ言葉をかけられることがあったが、それは必ず母に向けられていたし、ずっとぞんざいだった。こんなふうに、まっすぐ目を見て挨拶されることはない。自分がおとなになったような気がして、康介は昂ぶりと羞恥心で頬を染めた。
やさしそうな店員さんだった。康介の父よりもずっと年上のように見えるし、若そうにも見える。もしかすると、店の持ち主なのかもしれない。店にはそのひとひとりだけのようだった。さらに話しかけられたらどうしようと思ったが、店員は康介から目を離して、また屈みこんだ。康介からはよく見えないが、カウンターの向こうで商品を陳列しているようだった。
ほっとしたようながっかりしたような妙な気分で、康介は息をついた。ようやく目的を思い出して、饅頭を探しはじめた。
店の奥まったところにある小さな台のうえで、饅頭を見つけた。手にとろうとして、ぎくりとした。饅頭の箱の手前に白い紙が貼ってあったからだ。滑るような字で「一個二百円」と書いてあった。
康介はそっとポケットから手を出し、小銭を数えてみた。350円しかなかった。
康介は迷った。ひとつだけ買っていこうかと思ったが、きっと父は康介に食べさせようとするだろう。それに、康介も、あの饅頭そっくりの匂いを嗅いで、どうしても食べたい気持ちになっていた。
康介は首を捻ってカウンターのほうをうかがった。店員は相変わらず腰を折った姿勢で、白い三角巾がカウンターの机からわずかに覗いているだけだった。
咄嗟に康介は饅頭をひとつジャージのポケットに滑り込ませた。そしてもうひとつ饅頭を手にすると、カウンターに乗せた。
店員が真っ直ぐに立った。小柄なひとだった。背の高い母よりも小さいかもしれない。饅頭を見て、康介を見た。目を細めた。
「坊ちゃん」
そんなふうに呼ばれるのははじめてだった。康介はどきどきして店員を見上げた。
「いけませんよ」
全身の血が落ちた。康介の小さな胸が潰れそうなほど収縮した。康介は無言でポケットから饅頭を取り出し、カウンターに置いた。カウンターのうえには饅頭が2個になったが、店員は康介から目を逸らさなかった。
康介は俯いた。自分のしたことをようやく理解して、いたたまれなくなった。つかまって、警察に連れていかれるかもしれない。そうなったら、父を喜ばせるどころか、悲しませてしまうだろう。そのことで、もし父の病気が悪化したらと思うと、康介の目頭は熱くなった。
「康介くん」
いきなり店員が康介の名前を呼んだので、康介は目を丸くした。
「ぼくのことを知っているんですか」
「2丁目の日向荘の稲葉康介くんでしょう」
どういうわけか、店員は康介の家まで知っているらしい。いよいよ終わりだ。康介は唇を噛んだ。
しかし、店員は目を細くしたまま、肩を丸めて康介に話しかけた。
「お父さん、どう?」
やわらかな声だった。康介は顔を上げた。涙が零れそうになったが、ぐっとこらえた。日ごろから、男は泣いてはいけないと父にきつくいわれていたからだ。
「こっちにきなさい」
店員が手招きをして、康介はカウンターの裏にまわった。盗みをはたらいたことに対する折檻が待っているのだろうと思うと足が竦んだが、逃げられなかった。
それでも、康介の父が子供の頃からそこにあったというから、案外儲かっているのかもしれない。ときおり見かける客は、高価そうな身なりの女性や、太った中年。金を持っていそうなひとばかりだった。
康介の父は自動車の修理工で、ふつうのサラリーマンよりも給料は少なかったが、ふた月に一度ぐらいは、その店の印が入った箱をお土産に持ってきてくれることがあった。
そのたびに父は、ここの饅頭が県内でいちばん、いや、日本一旨いと、まるで自分のことのように誇らしげに語っていた。
たしかに、藤色の箱に入った小さな饅頭はとても美味しくて、康介はいつも必ず4個は食べた。おなかが減っているときは、5個食べるときもあった。8個入りだから、康介が5個食べてしまうと、3個しか残らないのだが、父は康介が饅頭を頬張るのを嬉しそうに見つめていた。
それほど美味しい饅頭なのに、なぜか母は食べなかった。甘いものが嫌いなわけでないのは、いつも近所の奥さんと喫茶店でケーキを食べるのに連れていかれるので、わかっている。康介が何度勧めても、母は饅頭を目にするのも嫌だというように首を振り、しまいには機嫌を損ねてしまうのだった。
そういうときには、なんとなく両親の間に流れる空気も重たくなってしまう。康介には、父が饅頭の箱を提げて帰ってくる日が待ち遠しくもあり、また不安でもあった。
しかし、その饅頭も、もう半年食べていない。買ってきてくれるはずの父が、病気で入院しているからだ。
母はすぐに帰ってくるといったけれど、それが嘘であることが、康介にはもうわかっている。いつ帰ってくるのかと聞いたときの両親の顔が、とても悲しげだからだ。
父はもう帰ってこないのではないだろうか。子供ながらに寒気のようなものをおぼえて、康介の足どりは重くなるのだった。
ジャージのポケットに手を突っ込むと、小銭がちゃらちゃら音を立てた。お小遣いを使わずに貯めていたのだ。8個入りの箱は無理でも、康介と父のぶんの2個ぐらいなら買えるだろう。
いつものように見舞いに行った日、母が花瓶の水を換えに席をはずし、病室に父とふたりきりになった。
康介はポケットに入っていたチョコレートをこっそり父に渡すつもりだったのだが、その前に父がぽつりと呟いたのを聞いて、ポケットから手を出すことができなくなってしまった。
なにげない独りごとのつもりだったのかもしれない。しかし、乾いてかさかさになった唇が振動したのを、康介は見逃さなかった。
あの店の饅頭が食いたいなあと、父はいったのだ。
母に頼もうと思ったが、やめておいた。どういうわけか、母はあの店の饅頭が気に入らないようだったし、父が入院してからは、近所のスーパーにパートに出るようになり、いつも忙しそうで、とてもそんなことを頼める雰囲気ではなかった。
しかし、康介はどうしても父にあの饅頭を食べさせてやりたかった。おやつを我慢するのはつらかったし、母に嘘をついているうしろめたさもあったが、なんとかこうして、お小遣いを持って店にやってきた。
扉を開けたとたん、甘い匂いが鼻腔を擽って、康介はついうきうきしてしまった。
店はやはり小さかったが、椅子やテーブルもなく、無駄なインテリアもないので、小学生の康介にはますます広く感じられた。
ときどき母に連れていってもらうケーキ屋のようにガラスのケースもなく、木の棚や机に饅頭や団子、煎餅といった菓子が並べられている。菓子屋というよりも、学校の図書室のような感じだった。
男の店員がひとりいて、扉の音で顔を上げた。これも木製の大きなカウンターの向こうにいたので、康介の姿が目に入らなかったようだったが、すぐに気づいて、目を細めた。
「いらっしゃいませ」
康介はどぎまぎして、小さく首を縦に振った。母といっしょにスーパーへ行くとき、同じ言葉をかけられることがあったが、それは必ず母に向けられていたし、ずっとぞんざいだった。こんなふうに、まっすぐ目を見て挨拶されることはない。自分がおとなになったような気がして、康介は昂ぶりと羞恥心で頬を染めた。
やさしそうな店員さんだった。康介の父よりもずっと年上のように見えるし、若そうにも見える。もしかすると、店の持ち主なのかもしれない。店にはそのひとひとりだけのようだった。さらに話しかけられたらどうしようと思ったが、店員は康介から目を離して、また屈みこんだ。康介からはよく見えないが、カウンターの向こうで商品を陳列しているようだった。
ほっとしたようながっかりしたような妙な気分で、康介は息をついた。ようやく目的を思い出して、饅頭を探しはじめた。
店の奥まったところにある小さな台のうえで、饅頭を見つけた。手にとろうとして、ぎくりとした。饅頭の箱の手前に白い紙が貼ってあったからだ。滑るような字で「一個二百円」と書いてあった。
康介はそっとポケットから手を出し、小銭を数えてみた。350円しかなかった。
康介は迷った。ひとつだけ買っていこうかと思ったが、きっと父は康介に食べさせようとするだろう。それに、康介も、あの饅頭そっくりの匂いを嗅いで、どうしても食べたい気持ちになっていた。
康介は首を捻ってカウンターのほうをうかがった。店員は相変わらず腰を折った姿勢で、白い三角巾がカウンターの机からわずかに覗いているだけだった。
咄嗟に康介は饅頭をひとつジャージのポケットに滑り込ませた。そしてもうひとつ饅頭を手にすると、カウンターに乗せた。
店員が真っ直ぐに立った。小柄なひとだった。背の高い母よりも小さいかもしれない。饅頭を見て、康介を見た。目を細めた。
「坊ちゃん」
そんなふうに呼ばれるのははじめてだった。康介はどきどきして店員を見上げた。
「いけませんよ」
全身の血が落ちた。康介の小さな胸が潰れそうなほど収縮した。康介は無言でポケットから饅頭を取り出し、カウンターに置いた。カウンターのうえには饅頭が2個になったが、店員は康介から目を逸らさなかった。
康介は俯いた。自分のしたことをようやく理解して、いたたまれなくなった。つかまって、警察に連れていかれるかもしれない。そうなったら、父を喜ばせるどころか、悲しませてしまうだろう。そのことで、もし父の病気が悪化したらと思うと、康介の目頭は熱くなった。
「康介くん」
いきなり店員が康介の名前を呼んだので、康介は目を丸くした。
「ぼくのことを知っているんですか」
「2丁目の日向荘の稲葉康介くんでしょう」
どういうわけか、店員は康介の家まで知っているらしい。いよいよ終わりだ。康介は唇を噛んだ。
しかし、店員は目を細くしたまま、肩を丸めて康介に話しかけた。
「お父さん、どう?」
やわらかな声だった。康介は顔を上げた。涙が零れそうになったが、ぐっとこらえた。日ごろから、男は泣いてはいけないと父にきつくいわれていたからだ。
「こっちにきなさい」
店員が手招きをして、康介はカウンターの裏にまわった。盗みをはたらいたことに対する折檻が待っているのだろうと思うと足が竦んだが、逃げられなかった。