からっ風と、繭の郷の子守唄 1話~5話
康平の居酒屋も、その一角に有る。
貞園は台湾から、絵画を学ぶためにやって来た女の子だ。
妖艶な魅力を放つ、スレンダーな美人だ。
日本に滞在するようになってから、早くも10年余りが経つ。
すらりとした綺麗な容姿にもの言わせて、某大手家電メーカー直属の、
冷暖房設備会社の社長愛人に、いつの間にかおさまっている。
「愛人暮らしというのは、窮屈です。
日本では、結構、肩身の狭い生活を強いられる。
台湾には、公娼制度というものがいまだに有ります。
ある意味、セックスに関しては開放的な国と言えます。
でも日本ときたら、いまだにセックスのことを”秘め事”と呼ぶし、
陰湿なものという見方が、はびこっている後進国だ。
女に関しても、いまだに男尊女卑の思想が横行してる。
ウチの社長ときたら二言目には、女遊びは男の甲斐性だと啖呵を切る。
あげくに今頃は、夜来香(いえらいしゃん)のママと、2泊3日で
いちゃついている頃だ。
まったくもって、日本の文化と、一部の男達には頭にくる。
仕事ができる男たちは、色を好むし、女遊びにも激し過ぎるものがある。
日本の社長族は全員が揃って、ドスケベばかりだ。」
カウンターへ肘を置き、頬杖を突いて、貞園が愚痴をこぼす。
カラカラとグラスの氷を指でかきまわしたあと、『ふんっ』と、いつものように
小鼻へ皺を寄せて、おどけてみせる。
それは、店の中に客さんの姿が見えないときに、貞園がいつも見せる、
いつもの決まった、おねだりなのだ。
「だってさ。康平は催促しなければ、私の傍に寄ってこないもの。
何をいまさら、警戒しているのさ。
別に取って食べるわけじゃありません。
寂しい女の独り言に、もうすこし真面目に付き合ってくれても
いいじゃない の、あんたは。
バチなんか、当たらないと思うけどなぁ」
「一人で飲むにには、なにやら、寂しいものがあるってか?。
もう少し待て。仕込みが終わったら、いつものように愚痴ぐらいなら
聞いてあげるから」
「少しだけよ、待つのは。
それにしてもさ。絵の勉強をするために、はるばる台湾から来たと言うのに、
どこをどう間違えたんだろう、いつのまにかの愛人暮らしだ。
あ~あ、私の人生は、こんなはずではなかったのに、なぁ~・・・・」
いつものように貞園が、懲りずに愚痴をこぼす。
社長は接待も兼ねて、仕事仲間や取引先たちと前橋市内の繁華街を
夜な夜な元気に呑み歩いている。
帰りを待つ身の貞園は、愚痴をこぼしながら今夜のように康平の店で、
時間を潰すことが、最近の定番になっている。
『呑竜マーケット』のすぐ西を、関東と新潟を結ぶ、国道17号線が
走っている。
国道17号線が、前橋市の住吉町一丁目にさしかかると、広瀬川に架かる
厩橋(うまやばし)のたもとに「前橋残影の碑」が建っている。
この碑は、生糸の町・前橋を象徴して建立された。
中世の頃から前橋では、「赤城の座繰り糸」と呼ばれた座繰製糸が盛んだった。
薪で沸かした熱湯で、繭を茹でる。柔らかくなった繭から、糸を引き出す。
手作業によって引き出された、独特の風合いと個性を持った糸は、
「赤城の糸」と呼ばれた。
明治維新以降。
広瀬川の豊かな水を利用して器械による製糸と、撚糸が盛んになった。
碑には「相葉有流」が詠んだ、前橋残影の句が刻まれている。
「繭ぐるま 曳けばこぼるる 天の川」とある。
座繰りをする女性の姿が描かれ、白御影石で造られた繭型の湧水が置いてある。
大きな繭からは、絶えず清らかな水が流れ出す。
それを前橋市の紋章を象った丸い台座が、しっかりと受け止める。
鉄道が発達をみせるまで、多くの水運を利根川が担っていた。
高崎市に近い倉賀野や、もう少し下流にある伊勢崎市の境町には、
水運のための大きな河岸が有る。
幕末から明治にかけて、上州で生産された大量の生糸や繭、蚕種などが
開港されたばかりの横浜を目指して、ここから船で送られた。
谷川岳を水源に、山の間を一気に下って来た利根川は、
豊富な水量と勢いのある急な流れを、前橋市の周辺まで保ってくる。
利根川には、『暴れ坂東』の異名が有る。
折にふれて、反乱を繰り返すからだ。
広瀬川は、市内の北部に取水口を持っている。
『暴れ坂東』の急流域を迂回させる目的で、広瀬川の流れは作られた。
前橋の市内を通り、30キロほど南に下ったところで、ふたたび利根川と
広瀬川の流れが合流する。
市内を流れた広瀬川の豊かな水流が、長年、前橋市の製糸業を支えた。
「へぇぇ・・・・赤城の座繰り糸か。
で、良く聞くけども、その明治時代と言うのは、いったいいつ頃のことなの。
例の坂本竜馬が、新撰組とチャンチャンバラバラを繰り広げた、
あの、古い時代のことでしょう?」
「大政奉還が1867年のことだ。いまからざっと、一世紀半も昔のことだ」
「じゃあ、19世紀の中ごろだ。
台湾でいえば中国本土の支配を受けていた他に、オランダと
スペインがやってきて、植民地にされていた時代だわ。
台湾に居住していた現住民は、10民族あまりで、いずれも少数民族ばかり。
その後、主に、福建省から移住してくる人たちが増えてきた。
いまでは台湾の人口の大半を、漢人たちが占めています」
「漢人? 台湾では中国人のことを、そんな風に呼ぶのかい?」
「日本人は、和人でしょ。
日清戦争以降、50年間も日本に統治されたことで、
私のひいおばあちゃんは、日本語がペラペラよ。
私が早く日本語を覚えたのも、その血を引いているせいかしら」
「へぇぇ。貞園は、どこで日本語を覚えたの。
留学の目的は美術大学で、絵画の勉強をするはずだったと思うけど」
「愛人暮らしの、ベッドの中。
肌を共にすることで、あっというまに、異民族の言葉を吸収します。
愛も、セックスも、言葉も全部、本能のままに身につくものです」
「・・・・あのなぁ、貞園。
客が居ないとはいえ、過激すぎる発言には要注意だ。
俺だって男だぞ。男を挑発するような言い方には、充分に注意しろ」
「あら・・・・この程度の表現で過激になるの?
そうよねぇ。日本ではあれのことを、『秘めごと』と呼ぶくらいだもの。
ほらほら、康平。お仕事の手が停まっています。
早く仕込みを終えないと、お客さん達が集まって来ちゃうわよ。
うふふふ・・・」
作品名:からっ風と、繭の郷の子守唄 1話~5話 作家名:落合順平