恋と友情
取り出された彼女の携帯電話の外部モニターにうつった文字に、どうしてか私が出るわけでもなんでもないのに顔をそむけてしまう。
彼女は私の様子をちらっと確認すると、声を入れ替えるために咳を何度かした後で電話に出た。
何度も何度も私の様子を確認しながら、笑顔交じりではあるけれど淡々と会話をしていた。
「ええ、わかったわ。無理しちゃだめよ、じゃあね」
ふうと息をついてから歩き出す。
私は少し遅れて彼女のあとを追いかけた。
「朋奈、なんて」
「今日、予告なく課題レポートがまとめて3つ出て、締め切りが近いから今日は来れないって」
「あの子、ちゃんと大学生やってるんだ」
「服装も変ったわよ。ああ、バスケットボールは続けてるみたいだけど」
と言った後の未翼から出てきた言葉はとても意外なものだった。
「で、うち、来るの?」
私は無条件に、うん、とうなづいていた。
未翼は1人暮らしだけれど、一軒家に住んでいる。
しかも、想像しているよりもだいぶ大きな一軒家だった。
大学に入ってからすぐ、未翼の父親が遠方の県の支社長として赴任することとなり、夫婦で引っ越してしまったからだった。
だからといって、大学の仲間と共に盛り上がるためにこの家を提供するような性格でも、そんな付き合いをしているわけでもない彼女はもう3年近くこの家に一人で住んでいる。
「相変わらず大きな家だよね」
「掃除が面倒なだけよ」
玄関のカギも金属製の想像できるようなものではなく、カードキーで、そのロックが外れる音も耳に違和感を覚えるような電子音だった。
ゆっくりと開かれたドアの向こうからは、ウイイインとロボット掃除機が向かってくる。
「今日は無事生きてたみたいね」
よしよしと未翼は1人で満足しながら玄関に上がる。
私も彼女に続いて、端っこまで来てから器用に折り返していくロボット掃除機を見送りながら、サンダルを脱いだ。
「いつも引っかかってるか段差から落ちてるかしてるから」
と笑いながら、未翼はカバンを置いて洗面台へと向かった。
律義にうがいと手洗いだけは欠かさない彼女は、見た目よりも体は頑丈な方だった。
「あのさ」
「何?」
リビングで所在なさと戦いながらとりあえずソファに正座していた私は、グラスと麦茶、それにポテトチップの袋をこちらへと持ってくる未翼に訊ねた。
「いいの?」
「何が?」
「あがって」
「言ったでしょう、朋奈ちゃんは来れないって」
ちょっと麦茶ぬるそう、と氷を取りに戻る未翼の後ろをついていく。
無防備なその様子に、カモがネギを背負ってやってくるということわざを思い出す。
言うならば、今の自分は、丸々とした美味しそうなカモがネギと土鍋と調味料と調理道具まで持ってきて、どうぞと笑顔でその体を差し出されているような気分だろうか。
微妙に手が出しにくい。
「私は、嬉しいけど」
「あのまま帰せないわよ」
グラスにカランカランと氷を入れながら、未翼は難しそうに眉毛をゆがめたまま、私の方を振り返った。
「なんだか、拾ってもらえない犬みたいな顔してたんだもの」
「捨て犬?」
「ま、出会ったことないけどね、捨て犬なんて」
今度は氷をたくさん入れたグラスを2つをトレーに載せて、アルバイトで手なれたように私の前に麦茶を差し出してくれた。
まだエアコンがきいていないのか、あまりに広いリビングの暑さに、さっそくグラスは水滴だらけになっていく。
「ついでにいうと」
「うん」
「朋奈ちゃんが来れないから呼んだ、っていうわけでもないから」
「わかってる」
もう何度目かなと思わせられる未翼のため息も気にせずに、私は麦茶を一気に飲み干した。
そのいきおいをそのままに、切り出す。
「私が未翼のこと好きなのっていけないこと?」
カラン、とグラスの氷が触れる透明な音がリビングに響き渡る。
「付き合ってる人はいるけど、好きでいちゃいけない?」
未翼から答えは返ってこない。
「迷惑?」
まだ、何も返ってこない。
「最低?」
少しずつ彼女との距離を縮めながら、私はずっと問いかけていた。
あと少しで彼女の肩に触れられるときに、彼女は小さく言葉を紡ぎだしていた。
本当にかすかな、小さな声で。
「最低じゃ、ない」
「ありがとう」
「でも、有里子の気持ちも、よく、わからない」
アルコールが入っているわけでもないのに、未翼の言葉はどんどんと酔っているかのようにスローリーになっていく。
ウィスキーでもブランデーでもなく、麦茶が入ったグラスを傾けながら、彼女は熱っぽいため息をついていた。
「付き合っている人、どんな人?」
ちら、と視線が向けられる。
私は、ポテトチップの袋を両方向に引っ張りながら、答える。
「アルバイト先によく来てくれるお客さん。27とか言ってたかな、男の人」
「やさしい?」
「さあ、あんなもんじゃない?いい人だと思う。ちょっと子供っぽいかな、カブトムシとかセミとか好きみたい」
「飼ってるの?」
「ううん、夏になったら九州の山奥に虫捕りに行こうって誘われてて。私、あんまり趣味じゃないから困ってる」
そんな風に、今付き合っているヨシヒロさんの話をしていると、未翼はグラスを置いてこちらを向いてくれた。
顔が近づいてくる。
キスされるのかと思うくらい、未翼の顔が近かった。
「一人だけ?」
「ヨシヒロさん以外だと、たまにご飯食べに行く人はいるかな、女の人。年上でいかにも世話焼きな人ね。あと、急に部屋に押し掛けても怒らない人、嫌なことあった時、お互いにお酒飲んで紛らわしちゃうの」
「相変わらず、豊富ね、人脈」
どうせまだまだいるんでしょ、と言い捨てられて、未翼はまた私から視線を外してしまう。
ああ、キスしといたらよかった。という後悔が胸に込み上げてきた。
「体だけの関係の人もいるの?」
「いないよ」
私の言葉に、未翼は首をかしげていた。
私もつられて首をかしげていると、未翼はとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、私だけだったの?」
「そんな人、いたことないけど」
未翼の言葉に、私は思考を停止させる。
いろいろと振り返る。
生まれてからこれまでの、そんなには長くはない私の人生そのものを。
だけど、彼女の発した言葉と、私が発した答えは全くのように噛み合っていないようだった。
明らかに私は動揺した。
私は、うまく考えていることが言葉にならなくて、そのふがいなさを振り払うように何度か髪の毛をぐしゃぐしゃと両手でかき回してから、彼女の方へと向き直った。
未翼は今にも泣きだしそうな顔をしていながらも、私から何かしらの答えを聞き出そうとその唇をかみしめていた。
「未翼が、その、私のセフレってこと?」
「そうでしょう」
「違う」
こんなに大きな声が出るのかと自分でも思ったくらい、私は大きな声で未翼の言葉をさえぎり、寸断していた。
「そんな風に、思ってた?違う、私、思わせていた?」
私が泣きそうなのをこらえながら未翼の体を抱き寄せると、彼女はそのまま私の肩に顔をうずめた。