恋と友情
彼女が喉越しの悪くなったココアを一気に飲み干しているのを見ながら、私は笑っていた。
「なんだか、懐かしくって」
「私を捨てたのはそっちでしょう」
私の言葉に休みなく突き立てられたその言葉には、ため息が出る。
確かに、そう思われそうだけれど、だけど、私はそんな風に思ってはいないなんて言い出せない。
あの時、私は確かに付き合っていた男性がいて、その男性との間で肉体関係は大いにあったことを認める。
そしてその関係の結果、来なければならないモノが来ない期間が続いて、私はあまり残高のない貯金通帳とその男性とのツーショット写真を見比べながら、覚悟を決めたのだった。
さすがに自分の責任で出来てしまったものを自分の都合のために処理するということは薄情すぎるし、そもそも子育てってやってみれば面白いかもしれないという興味が勝っていたのかもしれない。
だから、未翼に別れを告げて、一応自分なりのけじめをつけたつもりだった。
ところが、そこからが問題だった。
まず、私は妊娠なんてしていないことが発覚した。それだけならよかった。私の妊娠の可能性を知ったその男性は、私の前から逃げ出した。
逃げ出すだけならよかったけれど、私についてあることないことをいろいろな方面の人に言いふらして、逃げ出した。
弁解するのもおかしいし、黙っているのも自分の心体を傷だらけにしていくだけだった。
そこで思い出したのは、やっぱり未翼のことだったに決まっている。
いつだって一緒にいた未翼に会いたくて、元に戻りたくて。
と思っていたところで、妹が帰ってきて…あとは、あまり思い出したくはない。
カッコつけて平静を装って妹を介抱したり、『お幸せに』なんて言って妹に彼女を献上する形になったり。
あの後、夕食の時間に見た妹が、明らかに私の知っていたはずの妹じゃなくなっているのを見ると、心はより複雑な気持ちで浸食された。
未翼を抱いたのか、未翼に抱かれたのか。
どちらかはわからないけど、同じ人を好きになった人間だからわかる、とにかく幸せな時間を過ごせたんだろうな。
思えば、妹に会うのが辛くて家に帰らなくなっただけなのかもしれない。
あの子は、何も悪くなんてなくて、私の心だけが歪みまくっている結果だというのに。
「ごめん」
一生懸命何か言えそうな言葉を引っ張り出そうとしたけれど、結局この言葉しか出てはこなかった。
未翼の隣を離れて、もう一度向かいに座りなおす。
場が持たなくて手を伸ばしたすっかり薄まってただの風味の付いた水になったオレンジジュースを、氷と一緒に噛み砕く音が響いた。
「そういえば、謝ってもなかったね」
「もういいわよ、過去のことだもの」
その突き放された言い方に、本当に少しだけ涙がにじんだ。
その様子に気づいたのか、未翼は一瞬だけ表情を変えると、テーブルの端にあったナプキンを私の方を見ずに差し出してくれた。
ナプキンを受け取って目元を抑えると、じんわりとナプキンが染まっていく。
そして、マスカラが少し剥がれたのを気にしながら、もう一度彼女に向きなおす、いつものように。
「私、もしかして都合よすぎる?」
「どういう意味?」
「正直なところ、未翼とまだつながっていたい」
「だから、友だちでいるじゃない」
と、携帯電話のモニターを覗き込みながら、未翼は言う。
そういえば、この後で朋奈に会うとか言ってたっけ。
あぁ、また涙が出そうだと思いながら、私はボックス席の上に両足も挙げて体育座りになった。
涙を見せたくない、それに、自分で自分を抱きしめるくらいしないと寒くてたまらなかった。
「けど」
「けど?」
「セックスも、したい」
未翼は絶句していた。
パチンと携帯電話を元に戻してバッグに入れると、ため息を大きくついている。
「そういう意味でつながる気はないから」
「どうして?なんでダメなの?」
「むしろ、どうしてそんなことを思うわけ?おかしいと思うのはこっちの方よ」
「だって好きなんだもん」
未翼は再び言葉を詰まらせて、今度は帰ることをにおわすようにバッグを両膝の上に置いた。
帰らないでと願いながらも、私は同じ体勢のまま上目遣いで未翼を覗き込んでいた。
「だから、私には今、朋奈ちゃんがいるじゃない」
「私のことも好きでいてよ。というよりも、もう、好きじゃないの?」
「あなた、今付き合っている人いないの?」
「いるよ」
この答えがいけなかったのだろうか、未翼はバッグを持って立ち上がろうとする。
私はちょっと待ってよ、と声をかけながら帰ろうとする彼女を制止していた。
これだけ騒いでいたらマスターは起きてしまっただろうか、と思いカウンターをちらっとのぞくと、席を外しているようだった。
「急にどうしたの?」
「付き合ってられない」
未翼は、叩きつけるようにレジに千円札を2枚置いて出入り口のドアを開けていた。
私は、ようやくぼんやりとした顔で店内に顔を出したマスターに、ごちそうさまとだけ伝えて、彼女を追いかけた。
未翼は足早ではあるが、走ってはなく、いつもの彼女よりもずっと大股開きで歩いていた。
「ねえ、未翼ってば」
「話しかけないで」
「何がそんなに未翼を怒らせたの?」
「自分でそれぐらい考えなさいよ」
明らかに私から逃げようとする未翼の腕を掴んで、振り返らせる。
なぜか、彼女は泣いていた。
幸い、周りには人もいなければ猫や車さえも通っていなかった。
ボロボロの泣き顔を見せる未翼は、今だけは私のものだった。
ああ、本当に考え方が歪んでしまっているのだろうか。
私のことで泣いてくれることさえも、割とどころか、とてつもなくそそられるものだったのだから。
「私を好きとか言いながら、どうして、付き合ってる人がいるのよ」
時々混ざる苦しそうな息遣いをなだめるように、私はそっと未翼の腕を引っ張って、やわらかく抱きしめる。
「私だって、付き合っている人、いるのに」
一度だけびくっと力が入ったかと思ったけれど、彼女はそのまま私の腕の中におさまってくれた。
「知ってる」
「あなたの妹なのよ」
「うん、超超可愛いでしょ」
「裏切れないわ」
「なんだ、やっぱり好きでいてくれてるの?」
と耳元で囁くと、今度は平手打ちが飛んできた。
とっさの右手のひらの襲来に、私は頭をかがめる。
未翼の右手のひらは私の頭頂部の髪の毛を掠めて、そのまま真後ろにあった電信柱をひっぱたいた。
思っていたよりも鈍くて平たく冷たい音がしたかと思うと、未翼は右手首をつかんだまま痛みに口元を大きくゆがめていた。
「大丈夫?」
「最低」
「誰が?」
「あなた」
「そんなにひどいことした?さっきから同じこと質問してばっかりなんだよ、こっち」
「私はどうしたらいいのよ、そんなこと、いきなり告げられて」
思い切り激しく燃え上がった後に、思い切り冷え切った水を浴びせかけられたように、未翼は黙り込んでしまった。
未翼のバッグの中からガタガタと小さく何かが鳴動する音が響く。