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出雲古謡 ~少年王と小人神~ 第三章 「天からの落とし物」

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 その国の名は、志貴彦も話にしか聞いたことがなかった。豊葦原の、最果ての国。この国の向こうには、もう何もなく、ただ広い海のみが広がっているという。
 その世界の東端に、とうとう志貴彦はやってきてしまったのだ。兄達の追手を逃れ、ひたすら遠くへ遠くへと一月余りも旅を続けた結果、「終わりの国」へ辿り着いてしまった。

「しかしまあ、よくもここまで来たものじゃ」
「やれば出来るもんだよねえ。途中、兄さん達の追手にも捕まらなかったしさ。きっと、今頃すごく悔しがってるよ」
 兄達の姿を想像し、志貴彦はおかしそうに笑った。
「……それにしても、どうも、荒れ果てた国じゃのう。ここには、人や神はすんでおるのか」
 少彦名がやや心配そうに言った。
「さあ…‥。僕も、この国については、名前くらいしか知らなかったからなあ……」
 志貴彦も頭をひねる。見た限り、この国はどうにもただ荒涼としていて、何か人里のようなものが存在しているようには思えなかった。
「……でも見てよ、少彦名! 橘の木はいっぱいあって、実も沢山なっているよ。おいしそうじゃないか」
 気を取り直したように、志貴彦は言った。
「……うむ。たしかにのう。黄金色の実が、うまそうじゃ」
「ちょっと食べてみる?」
 言うと、志貴彦は少彦名を頭に乗せたまま、手近にあった橘(蜜柑)の木に登り始めた。
 器用に枝をつたい、黄色い実を一つ二つ、懐に入れていく。その内、ふと志貴彦の手が止まった。
「あれ? こんなところに、領巾(ひれ)が落ちてる」
「領巾じゃと?」
 少彦名は頭をあげ、志貴彦の指さす先を見た。
 黄金色の実をつけた枝にからみつくようにして、薄青色の領巾がはためいている。
「誰かの落とし物かなあ……」
 呟きながら、志貴彦は枝に絡まっていた領巾を手にとった。懐に橘の実を入れたまま、根元に飛び降りる。
「綺麗だなあ。結構高級品だよ、この領巾」
 志貴彦は、領巾を陽に透かしながら呟いた。
 領巾とは、身分の高い女性が装飾などのために肩にかける、細長い織物のことである。
 志貴彦が手にとった領巾は薄く軽くしなやかで、兄達の母が身に付けていた白い領巾などより、ずっとずっと上等の物であるように見えた。

「女人が近くにおるのかの」
「さあ。分からないけど……」
 言いながら、志貴彦は手に持った領巾を振り回す。すると。
「あれ!?」
 志貴彦は目を見張った。彼が領巾を振り回すと、領巾の端から次々に稲種がこぼれ落ちて来るのだ。
「おもしろい! なんだこれっ」
 志貴彦は嬉々として領巾を振り回した。勢いよく振り回すほどに、稲種は激しくこぼれ、手を止めると途端に稲種は止む。
「ねえねえ、これなんだろう、少彦名!」
 志貴彦は楽しそうに聞いた。こんな面白い『玩具』は、これまで見たこともない。
「わからぬ……が、しかし、尋常なものではないの。恐らく、人の物ではあるまい。どこぞの神の呪具か……」
「なんだっていいや! 僕が拾ったんだもんね。僕のものだ!」
 決めつけると、志貴彦は領巾を振り回したまま歩き始めた。彼の歩いたあとに、稲種が点々とこぼれ落ちていく。すると、どこからか鼠の一家が現れ、志貴彦の落とした稲種を次々とついばみ始めた。
「ははは、鼠たちも喜んで食べてるよ!」
「おい志貴彦、あまり調子に乗らぬほうが……」
 そう、丁度少彦名が言いかけたとき。
 志貴彦が勢い良く振り回した領巾が頭上の少彦名を直撃し、小人神は少年の頭から転げ落ちた。
 --しかも。
 地面に落下した少彦名を。志貴彦は、思い切り踏みつけてしまったのである。
「ギュウゥっ!!」
「わああっっ!!」
 少彦名の断末魔と志貴彦の悲鳴が同時にあがった。
「少彦名っ。少彦名、ごめん!!」
 志貴彦は大慌てで、地面に転がった少彦名を救い上げた。
「少彦名! 少彦名、大丈夫!?」
 志貴彦は、泣きそうになりながら義弟の名を呼ぶ。
 踏み潰された小人神は、瀕死の様相を呈しつつ、志貴彦の掌の中でのびていた。
「少彦名、しっかりしてよ……」
 志貴彦は指先で少彦名の頬をつつく。
「う、うう……」
 少彦名は呻き、かすかに目を開けた。
「痛い……」
「ごめんよ、わざとじゃないんだ!」
「そんなことはわかっておる……だが、わしはもう駄目じゃ……」
 全身を痙攣させながら、少彦名は弱々しげに呟いた。
「そんなこと言うなよ! ……そうだ、橘の実食べてみる!? おいしいから元気になるかもしれないよ!」
「……」
 懐から実を取り出す志貴彦を、瀕死の少彦名は呆れたように見上げた。
「わ、わしが……今そんなものが食えるとでも……」
「え、じゃあ、どうすればいいんだよ!?」
 志貴彦は途方にくれたように呟いた。どうにかしなければ、少彦名が本当に死んでしまう。
「どうにもならぬ……ああ、わしは……神魂神の子として高天原に生まれ……常世の国で自由に暮らしながら……最期は、こんな所で人の子に踏み潰されて死ぬのか……」
「恨みがましいこと言うなよ! 僕だって、小人を踏み潰したままだなんて嫌だよ! ……そうだよ、少彦名! 君は神族なんだから、その力でなんとかならないの!?」
 志貴彦は必死に呼びかける。
「……ああ……」
 少彦名はしばらく無言のままのびていたが、やがて何かを思い出したように呟いた。
「あれが……ここにあれば…いや、しかし……」
 少彦名はぶつぶつと独言を続けた。
「なんだよ! 何だってやってやるからさ! 方法があるなら言ってよ」
「……わしを……土の上に……置いてくれい……」
 考え込んだ後、少彦名はしぼり出すように呻いた。志貴彦は、即座に--しかし丁寧に少彦名を地面の上に置く。
 少彦名はうつ伏せになり、しばらく注意深く土の匂いをかいでいたが、やがて志貴彦に言った。
「ここより五千歩……真東へ……」
「そこへ行くんだね!? わかった!」
 言うが早いか、志貴彦は少彦名を両手に持ち、物凄い勢いで東へ向かって走り出した。

 ……やがて、「諏訪」と呼ばれる地に到達した頃。志貴彦の目の前に、巨大な石の山が出現した。
「こ、ここじゃ……」
「え、ここ!?」
 手の中で弱々しく呟いた少彦名の声を聞き、志貴彦は足を止めた。
 少彦名はくんくんと風の匂いをかぎ、確信したように指さす。      
「その……岩山の下に……玉水が流れておる。……そこに、わしを……つけてくれい」
「この--下に!?」
 志貴彦は思わず眼前の光景を凝視した。
 その岩山は、数十個の石が積み重なって出来ている。一つ一つの石はどれも大きく重そうで、志貴彦の背丈程の物も多々混じっていた。
「--わかった」
 しばしの無言の後、志貴彦は決然と告げた。
「少彦名、すぐ楽にしてやるからね」
 そう言うと、少彦名を下に置き、志貴彦はずんずんと進んでいった。
「……ら、楽とは……お主、わしを殺す気か……?」
 少彦名の戯言に答えもせず、志貴彦は真剣な面持ちで「作業」にとりかかった。
 石の山は、一番下のところに、ぼろぼろになった注連縄がかけられていた。志貴彦はそれをひきちぎり、手近な所にある石から退かしていった。
 --石は重い。当然のごとく、それを運ぶ手は痛い。