出雲古謡 ~少年王と小人神~ 第三章 「天からの落とし物」
大声で叫ぶと、邇芸速日は慌てて天磐船に飛び乗った。
天界の絶対的権力者、天照の恐ろしさは、天津神ならば誰もが身に染みて知っている。
あの気高く美しい青年神は、自分に対抗するものを決して許さない。
日神である天照には、月読と須佐之緒という、二人の妹がいた。彼らは三貴子と呼ばれ、神々の中でも傑出して高貴な存在だった。
三貴子は、それぞれ皆、高天原の主宰神になりうる程の資質を備えていた。しかし天照は、自分以外のものが天の王となるのを許さなかった。
天照は、造化三神の一柱、高御産巣日神を味方につけ、天界の主権を掌握した。早々に高天原に見切りをつけ、地下にある根の国の司として去っていった須佐之緒は、賢明だったというべきだろう。なぜなら、最後まで対向者として残った、月読の運命は……。
「あああ恐ろしい、あれの二の舞だけはごめんだぜ」
『それじゃ、ご主人様。出発しますからね。ちょっと揺れるけど、しっかりつかまってて下さいよ』
言うと、邇芸速日と十種の神宝を乗せたまま、天磐船は空に浮かび上がった。
そのまま、天磐船は勢い良く青空の中を降下していく。
「うっひょー、久々だが、気持ちいーなー」
『大丈夫ですか? 酔いませんー?』
「平気さ! もっと飛ばしてもいいぜっ」
先ほどまでの憂うつな気分はどこへやら。邇芸速日はすっかりご機嫌になって天磐船をけしかけた。
空はどこまでも広く、青く、空気は清浄この上ない。誰もいない天を駆けることの、なんという心地よさ。
一つに束ねた長い髪を、身に纏った浅黄色の衣を、冷たい風が吹き抜けていく。
気分良く降下を続けるうち、眼前に虹色の雲が広がってきた。
「あれは……」
『天の八重多那雲(やえたなぐも)です。今から、あの中を抜けますよーー』
宣言して、天磐船は八重多那雲の中へ突っ込んだ。
「うわっ」
一瞬目を瞑ったものの、すぐに邇芸速日は天磐船の端から身を乗り出した。
「すっげー! めちゃめちゃキレー!!」
邇芸速日は、興奮して周囲を見回す。
天の八重多那雲の中は、乱反射する光の洪水だった。
赤、青、黄……まさに、虹色の世界。無限に続く光の乱舞は、見る者を幻想の世界へと誘う。
「すげえな……この中に、昔はあの「神獣」がいたのか……」
光の洪水に圧倒されながら、邇芸速日は呟いた。
この八重多那雲の中には、かつて、「主」である神獣・巨大鯱がいたという。
しかし、月読に忠誠を誓ったことが、この鯱の運命を狂わせた。
天照に睨まれた鯱は、月読と共に堕天の罪をきせられ、天界から追放された。
月読にいたっては、その際、神格さえも奪われたという……。
「ううう、そんな目にだけは、あいたくねー」
邇芸速日は思わず目を閉じて頭を振った。
高天原にあって、天照に逆らえば、存在することさえ適わなくなるのだ。
『ご主人様、雲を抜けます』
天の八重多那雲を抜け、天磐船は再び青空の中へ出た。
天磐船は、順調に天の浮橋を降下する。やがて、地上へ下る道の分岐点である「天の八又(やちまた)」まで到達した時、不意に天磐船が停止した。
「どうしたんだ? 急に止まって」
『……ご主人様。妨害者がいます』
天磐船は注意深く言った。
「妨害者? ……べつに、誰もいやしねーけど……」
邇芸速日は怪訝そうに周囲を見回した。辺りには、神や人はおろか、鳥一羽いやしない。
『いいえ……私には、分かる。これは……噂に聞く、八又の主……!?』
言いながら、天磐船が後方へ移動しようとした、その時。
「俺に断わりなくここを通ろうとしてるのは誰だあっっ!!」
突如、彼らの前に、恐ろしい大男が立ち塞がった。
「ぎゃああっ!」
驚愕して、邇芸速日は天磐船の中にへたり込む。
「お前はいったい誰だあ! 誰の許しを得て、この八又を通ろうとしている!?」
大男は、殊更恐ろしげな形相で邇芸速日を威嚇した。
邇芸速日は、言葉を失ったまま目を見開いて、大男を凝視する。
それは、本当に無気味な異形の男だった。
背丈は邇芸速日の六倍ほどもあり、片手くらいはある長い鼻が顔の真ん中から突き出している。
しかも、口と尻は明るく光っていて、目は鏡のように丸く大きく、真赤なほおずきのように照り輝いている。
後世の人々なら、彼を見て、「天狗」と呼んだだろう。だがそんなものは存在しないこ
の時代、邇芸速日は大男を一目見て「猿の化物だ」と思った。
「おおお、俺は、邇芸速日。高天原の神族だ。天照大御神の命で、地上へ向かうところだ。お前こそ、いったい誰だ!」
半ばやけになって、邇芸速日は叫んだ。
「天照ぅ? ふん。天の神など知ったことか。俺はこの八又の主・猿田彦(さるたひこ)。ここを通りたければ、お前の持つ宝を俺に差し出せ!」
猿田彦はぞんざいな態度で邇芸速日に命じた。
「宝!? そんなもの、持ってやしねーよ」
「嘘をつけ! そこにあるではないか!」
猿田彦は、勢い良く邇芸速日の足下を指さした。そこにあるのは、天照から預かった至宝--「十種の神宝」だった。
「こ、これは天照大御神から与えられた、高天原の至宝だ! 貴様ごとき化物に渡すわけにはいかねーよ」
叫びながら、邇芸速日は反射的に十種の神宝を抱え込む。そうした邇芸速日の言動は、猿田彦の怒りに油を注いでしまった。
「なにいっ!? 生意気な! ならば、力ずくで奪ってやる」
言うと、猿田彦は片足で天磐船を押さえ、両手で十種の神宝を掴んだ。
「やめろ! よせっ。これがないと、俺は……」
「知ったことか! さあ、よこせ」
邇芸速日と猿田彦は、それぞれ箱を掴んで激しく引っ張りあった。振動で天磐船は安定を欠き、ぐらぐらと揺れ始める。
『や、や、やめてください、二人とも。手を離して! このままでは、このままでは……あああーーーっっ』
高い悲鳴と共に、天磐船はひっくり返った。
その瞬間、十種の神宝が宙に放り出される。
小さな小箱は、あっという間に下に落ちていき、見えなくなった。
猿田彦は、器用に宙に浮いている。天磐船も、ひっくり返ったまま、浮いている。しかし、邇芸速日は--。
『ご主人さまぁーー!』
天磐船の悲痛な叫びが響く。
翔ぶことの出来ない邇芸速日は、地上の重力に捕えられ、瞬く間に落下していった。
「……ふん。つまらん」
宝がいずこかへ消失した途端、猿田彦は興味を失ったように呟いて姿を消した。
『ご、ご主人様が……落ちてしまった。一体どうすれば……ご主人様……』
一人取り残された天磐船は、しばらくはどうしていいかも分からず、ひっくり返ったまま、ただ空しく「ご主人様ぁーっ」と連呼し続けていた。
※※※※
「随分遠くまで来ちゃったもんだなーー」
感慨深げに呟くと、志貴彦は辺りを見渡した。
周囲は一面の草原である。人家はおろか、人影すらも殆どなく、ただまばらに橘の木が立っているのみだった。
「ここが、『国の果て』か?」
志貴彦の頭の上で、少彦名が聞いた。彼もまた、物珍しそうにきょときょとと周囲を見回している。
「そう。多分ね。『信濃国』--豊葦原の、東の果ての国さ」
作品名:出雲古謡 ~少年王と小人神~ 第三章 「天からの落とし物」 作家名:さくら