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しのめ

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 少しだけちりちりと傷む肌を擦り、完全に日が落ちて宵闇に包まれる僅かな時間の合間に出来るだけ歩みを進めようと新良は駆け出す。荷はがちゃがちゃと音を立てたが背に腹は代えられない。野盗に絡まれて荷を強奪された挙句殺されるよりはマシだろう。多少の荷の破損には目を瞑るしか無い。
 流石にこの時間から峠に入る者はおらず、人とすれ違うことはない。たとえ先人が居たとしても随分先になるだろう。新良は脇目もふらず一心に山を降ることを目的にして駆ける。
 だが所詮は人の足。いくら彼が精力的な年齢だと言っても、馬ほど歩が進むわけではない。無常にも日はあっという間に山間へと落ち、辺りは闇に包まれる。反して空には煌々と星が輝いた。
(流石に限界か)
 昼は藪の中を歩いたのだ。体力的にも気力的にも疲労は限界に達している。
 竹筒水筒に口をつけ、疲れを振り払うかのように水を流し込む。驚くべきことに水は未だ冷たい。ここまで来る前に何度も水を口にしたが、その度に体が冷える程にそれは冷たかった。
「…もしかして、この水が原因か?」
 己の体の異常と原因。思い当たる節といえば清流の水が異様に冷たかったことだろう。涼しさを感じなくなったのも、陽の光を火傷するほど熱いと思ったのも、あの水を口にしてからだったように思う。
 職業柄怪奇には慣れているがこう言った己が被害を被る事案はあまりない。さてこれは困ったぞ、と頬を掻く。頬には汗が伝っていたが、それも直ぐに氷の結晶となって宙へ溶けた。
(とりあえず、木に登って野犬の強襲を防ごうか)
 何はともあれ今は身の安全確保が先だ。新良は辺りを見渡し手頃な大きさの樹を探す。深い森を持つ山だが登るのに手頃な樹は少なく、彼は歩きながらぐるりと周りの様子を伺った。
 そこで一つ、小さな光が目に入る。
「お?」
 それは人の灯す光。こんな山奥には珍しいものだ。それは道から少し離れた茂みの奥に見えた。
 人家とあればこれ幸い。…と普通なら思うのだろうが流石にこれは都合が良すぎじゃないか、と新良は訝しむ。まるで罠だ。荒屋で上質な食事を無償で用意されると言うぐらい、怪しい罠だ。妙な水は飲んだがこんな見え見えの罠にかかる程怪奇に慣れたこの俺は迂闊じゃない、と彼は独り言つ。
 踵を返してもう少しだけ頑張って麓まで歩こう。そう灯りから背を向けた直後だった。
 正面、道の真っ直ぐ向こうから黒い人影。
 これから峠に向かう旅人か、と思ったが直感的にぞわりと悪寒が走る。人影は墨を垂らしたように真っ黒な人の形をした「何か」だった。いくら日が落ちているとは言え「暗い」ではなく「黒い」というのは可笑しい話だろう。何よりも、暗い山だというのに行灯の明かり一つ手にしていない。
 その得体の知れない人影はゆっくりと歩いていたが、新良の姿を認めると途端に歩調を速める。頭のような黒い球体はガクガクと揺れ、口に当たる部分はバリバリと音を立てて裂けて中から真っ赤な血肉の色を覗かせる。
 咄嗟に茂みへ飛び込み、件の灯りに向かって走ったのは仕方ないことだろう。影その物の異形から逃れようと脳は無意識に灯りを求めた。
 近づいてみて分かったが、灯りを放つ家屋は思っていたよりも変哲のない板葺きの民家だった。新良は一瞬だけ躊躇ったが、背後より迫る藪をかき分ける足音に背中を押され戸に手を掛ける。思い切ってその戸を引けばあっさりと闖入者は招き入れられた。
「御免! 怪しい者ではないが、助けていただきたい!」
 話は後だ。屋内へ飛び込み、まずは戸を閉め支え棒で侵入を防ぐ。外の異形もこの家屋に辿り着いたのだろう、藪を踏み分ける音は止んでいる。ただ「うー」やら「あー」やら気味の悪い唸り声を戸の前で上げていた。
 どうやら入ってくる気配はないようだ。そう一安心した所で次の不安が新良を襲う。飛び込んだはいいが家主の悲鳴も何も聞いた覚えがない。空き家かあるいは山賊の家だったか、あるいは背後で武器を構えているのか。彼は恐る恐る振り返る。
 だがその不安はどれも的中せず、光景を目にした新良に新たな不安と強烈な違和感を与えた。
 視界に映ったのは普通の民家と変わりない小さな囲炉裏。そこに座って椀を啜る女が一人。長い髪も結わず白色の着物を着た美しい女だった。彼女は闖入者に動じることなく黙々と飯を口にしていた。
 全く動じていないこともさることながら、一番の違和感は「何故女性が一人、この人気のない山に居るのか」ということだ。見たところこの長屋の一室のような四畳半の狭い部屋には彼女以外の人影はない。彼女の旦那や家族が外に居るかとも思ったが、そんな者が居ればこの家屋に飛び込む前に目にしているはずだ。何より外にはまだあの得体の知れない異形が居るのだから、それこそ外に人間が居れば悲鳴の一つだって聞こえてくるだろう。
「ああ、ええと」
 ともあれ、飛び込んでしまった非礼を詫びて礼を述べなければ。新良は溜息混じりに冷たい息を吐く。
 だが、彼が言葉を口にするより先に女が動いた。
「お帰りなさい」
 それは全く思い掛けない言葉だった。
 彼女が紡いだ言葉を理解するのにしばし掛かった新良は唖然と口を開いて凍りつく。女は構わず続けた。
「お腹が空いたでしょう。夕餉の用意はできてますよ」
 そう言って新良に向けられた美しいかんばせ。ただし血色は悪く生気を感じられない。紫色の唇からは新良同様、冷えた吐息が零れた。
「まあ、座ってご飯を食べてくださいまし」
 促され、言われるままに新良は荷を下ろして火の付いていない囲炉裏を前に腰掛ける。大人しく言うことを聞いているのは彼女が比較的温厚で、友好的に己と接しているからだ。拒絶をして下手に不興を買うより従っていたほうが安全だろう。
 差し出された椀を受け取る。中に入っているのは煮ていない葉物と冷えた水。次いで置かれたのはこれまた火を通していないヒエや粟。いくら夏場とは言え生食するには憚られる。
 どうぞ召し上がれという言葉を「疲れすぎていて食欲が沸かない」とやり過ごす。実際は空腹なのだが女性の得体が知れない以上口を付けるべきではないだろう。今ばかりは腹の虫が鳴かないことを祈るしかない。
 新良は箸を置いて彼女に向く。
「聞きたいんだが」
「なんでしょう」
 女は妖艶に笑みを浮かべた。美しいかんばせも相まってその笑顔にくらくらと目眩を起こすが飲まれてしまうわけにはいかない。新良は言葉を続けた。
「君は何者だ」
 一番重要で至極真っ当な問い。女は一瞬だけ目を丸くしたが直ぐ様先程同様の笑顔を浮かべ、口元を袖で隠すと小さな笑い声を漏らした。
「流されず、逃げ出さず、恐れない人間は久方ぶりにございます」
 それは暗に己が異質な者であることを仄めかす言葉。
「ただ、その問には答えかねます。言えば貴方は去ってしまうでしょう?」
 外からは相変わらず件の異形の呻き声。ここから去るには骨が折れるだろう。だが「聞くな」と匂わせている以上追求も出来そうになかった。だが、見当は付いている。執拗に火を使わない料理に己と同じ冷たい吐息。それに己を知っているかのような態度。
(あの冷たい水に関係ある異形か)
 彼女はおそらくそうだろう。では、あの外を蠢く黒い人影は。
作品名:しのめ 作家名:Kの字