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しのめ

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じわじわと熱の揺らぐ地面。響く蝉の声。太陽は真上。日差しの強い昼真っ盛りだ。
「暑い」
 額から玉のような汗を滴らせながら一人の物売りが人気のない峠を歩く。彼は栗毛色の癖毛を掻き上げ手についた汗を仰ぐようにして払った。水滴は陽の光を浴びてきらきらと煌めき地面へと着地する。だが、この焼けるように熱された土はその痕跡をいとも容易く消し去っていった。後にはただざらりと乾いた土が残るのみだ。
 こんな熱波ではとても長くは歩けない。物売りは一先ず休憩しようと近くの木陰に身を隠す。木々の合間から降り注ぐ光は相変わらず強烈な熱を含んでいたが、炎天下にさらされるよりは幾分かましだった。
「こうも暑けりゃへばっちまうな」
 そう独り言つと彼は荷箱を肩から下ろす。地面に着ければがちゃりと品物のひしめき合う声。わずかに切れ込みの入った溝に薄い板で出来た蓋を合わせ、滑らせるようにしてそこを開く。中は幾つかの底板で間仕切られており、それぞれの箇所に思い思いの品物が詰め込まれていた。
「よし、割れたものはねえな」
 入っているものは真鍮や陶器、木製の小物など様々だ。そのどれもが正常に並んでいるのを見て物売りの男は満足気に頷く。これらは物売りが「異形の者」と呼ばれる異界の住民と交易するのに必要な貴重品だった。あちらの住人の中には変哲もない此方の小物を喜んで収集する輩が居る。
 物売りの名は新良(しんら)。齢は二十代前半だが、傭えられた無精髭の所為で若干老けて見える人間の男だ。彼は今地方で実しやかに囁かれる奇譚を目指し、人気の無い峠を越えている最中だった。
 真偽の程は定かではないが異形にまつわる怪奇と聞けばじっとしていられないのが彼の性分だ。何よりも、そう言った場所に赴き上手くそれらに関わる物品を入手できれば、そう言った物の収集を好む好事家に随分良い値で売れる。自身も蒐集家である新良にとって趣味と実益を兼ねた商売。それが「異形扱い」と呼ばれる特殊な物売りだった。
「それにしても随分暑いな」
 彼は空を見上げ億劫そうに毒づく。それから腰に括った竹筒水筒を外し中の水を口にした。水は当然のように温かったが十分に喉を潤す。続いて同じく腰に括ったカマスの中から小さな兵糧丸を取り出して口へ放り込んだ。味は…まあ、美味しくはない。
 食事を終えてもう一口水を飲む。お陰で水筒の中身は随分と減った。
 今はまだ真昼でこれから暫く暑い時間が続く。だからと言って峠で夜を待つのも危険だろう。日が暮れるまでにはなんとか人気のある場所まで下りたい。
(じゃあまだ水は必要だな)
 幸いここへ来るまでに何度も川を目にしている。山も緑が深いことから水源が豊富であることが伺える。ならば簡単に湧き水を見つけることができるだろう。
 よし、と一つ声を上げ、新良は荷を纏めると道から少し逸れた藪の中へと足を進める。そこは鬱蒼と茂る深い緑の中だった。
 目を凝らして木々の合間を見れば時折不自然に踏み潰された草木が目に入る。きっと獣の道だろう。少しだけ距離を離して並走するようにして獣の道を辿れば、獣達はまっすぐにある場所へ向かっているようだった。
「お、あった」
 森の中、見えてきたのは清流。彼は更にその清流の上へと足を進め、こんこんと水の湧き出る源へたどり着くと荷を下ろして膝を折った。
 水は驚くほど透き通っており、辺りの気温は先ほどの木陰とは比べ物にならないほど涼しい。…いや、少し肌寒い程だ。汗で濡れた麻の着物が乾いたために余計にそう思うのだろうか。新良は少しだけ肌を擦って身震いをした。
 ともあれまずは水を頂こうか。そう水筒の栓を外し、中へ水を入れると筒内を濯ぐ。揺らす度に中からはちゃぷりちゃぷりと水の踊る音が響いた。
 水筒を水で満たし、手ぬぐいを洗って額や体を冷やす。暫くそうしていれば頭のなかに篭っていた熱も次第に引いていく。川縁の岩に腰を下ろして足を清流に浸せば疲れが吹き飛ぶかのような感覚すら覚えた。
「あー… 生き返る」
 こういう台詞は温泉に入った時に言うことが多いが、この熱波の中ではまさに「生き返る」と言っても過言ではないだろう。熱に水分を奪われていた体は清流を得てまるで植物が甦るかのように潤う。
 ひと通り涼を満喫した後、そろそろ元の道に戻ろうかと荷をまとめる。最後に一口、清流で口を注いでその冷たい水をごくりと飲み込んだ。冷えた水は喉を通りあっという間に胃へ落ちる。
(冷たい)
 流石は清流…と言いたいところだが、水は奇妙なほど冷たかった。それはまるで解けたての雪解け水を口にしているかのような冷たさだ。この水は今彼の目の前で硝子質の砂を巻き上げながら湧いているもので、雪解け水ではない。
 そこで男は気付く。先ほどまで肌寒いと思っていたこの辺りの気温が全く寒くなくなっているということに。体が慣れたのかと思ったが、時折吹く旋風にも全く涼しさを感じ無いのだからこれは妙だ。肌寒いと思っていた場所で風を受ければ普通なら多少なりとも「涼しい」と感じるはずだろう。
「妙だな」
 暑さにやられて感覚が狂っただけならまだマシだけれど、と胸中で独り言つ。
 訝しげに思いながらも足を進めて元の道に戻る。道は相変わらずじわりじわりと陽の光で焼かれており、表面の空気は静かに揺らめいていた。
 そこへ一歩。木陰から飛び出すようにして足を踏み出す。途端稲妻のごとく体に走る激痛。身を焼かれるような熱を覚え、彼は悲鳴を上げて日陰へと転がり込んだ。
「熱っ!」
 それは身を焼かれる魚のようだった。
 陽のもとへ出ていた足を見れば仄かに赤みを帯びている。見た目はその程度の変化だが、あのほんの一瞬で火傷をしたような感覚だ。
 恐る恐る日陰から手の平だけを晒してみれば、先ほどの足同様熱湯を浴びたような痛みがそこを襲う。これはもう「妙」というのではなく「異常」だった。
「なんで…」
 動揺に声を漏らすと、言葉と共に恐ろしく冷えた息が吐出される。微かにちらつくのは氷の結晶。それはこの炎天下にはありえない光景だ。見間違えかと思い口元に手を当てるが、己が吐く息は酷く冷たいという現実。
 陽の光に焼かれる、吐く息が冷たい。これはまるで雪女のようではないか。新良は頭を抱えた。
 とりあえず今わかる事は「現状では陽のもとを動けない」ということだ。だからと言って日が暮れるのを待てば野犬や野盗に襲われる心配もある。歩きづらくなるが少し道を外れて藪の中を歩くしかないだろう。これは大きな時間の浪費だ。
「参ったな」
 だが悄気げている時間はない。彼は足取り重く藪の中を歩き始めた。



 案の定というか、その日は予定の半分程度しか進めなかった。
 空を見上げれば日も傾き、山間には影が落とされる。やがて月の明かりが太陽に代わって道を照らすことになるだろう。ただし、その光は太陽に比べて随分と朧げなため、昼に比べて道は見辛い。
 だが、物売りの男にとってそうなってくれた方が好都合だった。
「ちったぁマシだな」
 彼はそう言って藪の中から姿を現す。山の陰で道全てが日影となった今なら、多少は熱いが先程の日差しのように焼かれることはあるまい。
作品名:しのめ 作家名:Kの字