都会の片隅で蠢く虫けら
「子供もいないし、自分が死んでも誰も困らない。ある意味、気楽な人生よ。雑踏の中でふと、深い海の底に沈み行くような気持ちに飲み込まれそうになることがあるの。世の中にはこんなにたくさん人がいるのに、私には、愛し愛される相手がいない。人生に他人が必要だなんて、若いころは考えてもみなかった。いったい、どこでどう間違えたのか。考えてもその答えを見出せない。ただ、はっきりしているのは、恋人に別れを告げられ、子供を失い、独りぼっちになったということ。どこかで死にたいと思いながら、この町にたどりついた。あの子の墓がないことに気づいて、墓をつくろうと思った。炎とともに何も残さずに消えたあの子の墓を」
タケルはショウコの傷に触れた。
「今の医療の技術なら、このやけどの跡は消せるかもいれない」とタケルは行った。
「いいえ、消えなくともいいの。いえ、消えちゃいけないの。あの子のことを忘れないために。この火傷の跡があの子と暮らした日々を思い出してくれる。だからこのやけどの跡は宝物なの」
ショウコは服を着て、窓辺に立った。窓を開けると、夜の風が部屋に入った。
「あなたは?」
「俺は十年以上前に妻を亡くした。それからずっと独り暮らしている。子供もいない。会社だけが生きがいだったが、病気になり、閑職に追いやられ、いつの間にか居場所がなくなった。自分の居場所がないまま、定年を迎え、ただ衰えていって良いのかと悩んだ。それじゃいけないと思ったとき、会社を辞めた。一人でぼんやりとしていたとき、突然、写真を撮りたいという欲望をかられた写真を撮り始めた。ひょっとしたら、写真家になれるのではないかと思った。子供の頃、写真家になるのが夢だった。あれから三十年以上過ぎているのに……。狂気の沙汰かもしれない。しかし狂って何が悪い。たった一度の人生だ。たった一度……自分の人生を狂気の炎で彩るのも面白いと思っている。幸いお金には不自由していない。サラリーマン時代に貯えておいたから。東京を離れるとき、身の回りを整理したら、人生のほとんどが仕事だとあらためて知った。会社に近いところのマンション。十着近いスーツ、でも、私服はほとんどなかった。仕事関係の本。みんな捨ててきた。こっちを引っ越してみて、分かった。多くの人とのつながりも、仕事ともに消えるだけの関係だったと。本当にぷつんと切れた。独りぼっちになった。夜に悪夢を見るようになった。誰にも知られず、息をひそめて暮らし、そして誰にも看取られることなく死ぬ。そんな悪夢を。だから、いつも酔いつぶれるまで飲んでいる。全く虫けらと変わらない生活だ」とタケルは笑った。
ショウコは何も言わなかった。
タケルが帰るとき、そっと聞いた。
「どんな虫けらでも、一人でいるより二人でいる方が良いよね?」
「たぶん」とタケルはそっけなく答えた。
「また来てくれる」
「たぶん」と答えてタケルはショウコの部屋を出た。
作品名:都会の片隅で蠢く虫けら 作家名:楡井英夫