LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)
と思い当たった途端、彼はベッドの上で跳ね起きた。そして手首に目を遣ったが、腕時計がない。…昨晩、邪魔になるから外してしまったのだ。慌てて周りを見回すと、ベッドの脇にスツールが置いてあって、その上に片岡の服やら持ち歩いていたタブレット等が積み上げてあった。昨晩脱ぎ捨てた服をどうしたか全く覚えていないが、多分卯藤が置いてくれたのだろう。まずジャケットを取り上げてポケットを探ると、腕時計が見つかったので今が何時か確かめた。八時十分前。窓のカーテン越しでも既に外はすっかり明るいのだとわかる。
「しまった…」
左手で額を覆って、片岡は忌々し気に呟いた。早めに起きて自分のアパートに戻り、着替えて出勤するつもりだったが、それでは九時の始業時間に間に合わない。自分が事業主なのだから咎められることもないが、昨日殆ど事務所を不在にしてさぼっていた。雇ったスタッフの手前、今日は時間通りに出てきて大人しく仕事をするつもりである。昨日の服のまま出ては朝帰りしたことが一目瞭然だが…と思った途端、背中にひりついた痛みが走った。そういえば、打撲したことをすっかり…特に昨晩は完全に忘れてセックスにのめり込んでいたが、今朝になってみるとやや痛みが増した気がする。片岡は溜息をつきながら服を身につけ始めた。背中が痛むたびに顔をしかめてしまう。彼の言う通り、ちゃんと冷やせばよかったのか、と少し後悔した。だが、この姿で出勤する口実にはなりそうだ。そのまま動けなくて友人の部屋に泊まったと言えばいい。
ジャケットを羽織ると、鏡を見るために寝室の隅に作られている小さな洗面台の前に立った。洗面台の正面に作られた棚の上にシェーバーが置いてある。あいつでもこんなものが必要なのか…と思いながら拝借して身なりを整えた。
ハンガーにかけて壁に吊るしてあったコートと、タブレットを手にして支度が出来ると、片岡は卯藤の部屋を出た。コートのポケットには昨日借りたこの部屋の合鍵が入ったままになっていたので、自分で施錠して階下のカフェに降りて行った。
カフェの裏口へ通じる扉を開けて中に入ると、数人の客がカウンターの付近に立ってビカを飲んでいた。接客をしていたスタッフが振り返って微笑み、挨拶してきた。卯藤の店では二人雇っているようだが、昨日銀行へ一緒に行った女性の方は結婚していて子供がいるので、朝は少し遅く出勤するらしい。今は二十代前半くらいの若い男性がカウンターに立っていた。彼は昨日の夕方にも店に出ていたので片岡が背中を打撲してここに来た事を知っている。
「結局オーナーのところに泊まっていかれたんですね。打ち身の具合はどうです?」
「保冷枕が冷たくて我慢できなくって…つい冷やすのを怠ったら治りが悪くなっちゃったよ」
と答えて片岡は苦笑いを浮かべた。どう考えても原因は違うところにあるが、本当のことが言えるはずがない。
「そりゃ大変だ…今日もお仕事ですか。安静にしていた方がいいですよ」
「オブリガード(ありがとう)」
せっかくだから一杯ビカを飲んで店を出たかった。スタッフに頼んで淹れてもらう。小さなカップで出されたコーヒーを口に含むと、まろやかで心地よい苦みが心身をすっきりさせてくれる気がして、今日は特別美味く感じた。朝はこれがないと始まらない、というリスボンっ子の気持ちが片岡にもよくわかる。
ビカで一息ついていると、卯藤が奥の作業場から出てきた。いつもの白い作業服姿で…そして彼が出てくる時は、必ず焼きたての菓子を籠に山盛りにして抱えているのだ。片岡の姿を見ると僅かに微笑んだが、すぐに手にした籠からナタを取り出してショーケースに並べ始めた。
「よく眠れたか?」
「おかげさまで……すまん、こんなに遅くまで。これ…返しとくよ。鍵はかけてきたから」
ショーケースの上に合鍵を置くと、卯藤は黙って鍵を取り、一度は作業着のポケットに入れようとしたものの…そのままもう一度片岡に鍵を差し出した。
「君が持っててくれ……おい、何にやけてるんだ。皆が不審がるだろ」
にやけるなと言う方が無茶だろう。お前が自分の部屋の鍵をくれたのに…と言い返したかった片岡だが、これ以上口元が緩むと困るので、黙って鍵を握りしめたまま残っていたビカを飲んだ。
「ここから直接職場に行くのか」
「本当は…着替えに戻りたかったが、この時間じゃ無理だ」
「そう…トラムで?」
「今の時間は混むかな?カテドラルまで歩いてバスに乗るか…」
コーヒーを片手に、店員や顔見知りと他愛ない会話をして朝のひとときを過ごす。あるいは新聞を読んだり考え事をしたり。こうして仕事に出かけるまでの客達の僅かな楽しみを、リスボンのカフェは毎朝優しく見守っているのだろう。
「何だか、幸せだな…。こんな普通の生活が…」
店内の客達の様子を見つめながらのんびりと、ひとりごとのように片岡が呟いた。するとショーケース越しに彼の正面にいた卯藤が、少し目を細めて、何かを思い出すように遠くを見つめた。
「…でも君はあの時、この生活が退屈だと言って…去って行った」
「ああ、そうだった」
ショーケースの上にカップを置いて、片岡は右手で頬杖をつき、卯藤を見上げて微笑んだ。
「何が一番幸せなのか、まだわかっていなかった。あの頃は…」
でも今は、はっきりと口にできる。
「要するに俺は、お前さえ傍にいてくれたら幸せなんだってことを、さ」
いかにも自然に言われたので、卯藤は一瞬飲み込めずに目を瞬かせたが、その後すぐに顔が真っ赤になった。
「どうしてここで、そういうことを…」
「どうせ、他の奴らにだって散々言われた台詞だろ。…今更何を恥ずかしがるんだよ」
「……本当に、言って欲しい人に言われたら…十倍くらい恥ずかしく聞こえるものなんだって」
今度は片岡がきょとんとする。
「………そっか」
片岡がすぐ得意げな顔になったのが忌々しくて、卯藤はそっぽを向いた。
「ところで、せっかく焼きたてが並んだことだし…あ」
ショーケースからナタを出して貰おうとしたところで、片岡のスマホが鳴った。メールの着信音だ。コートの内ポケットからスマホを取り出して着信の内容を確認する。しかし画面を見ながら片岡の表情が曇っていった。
「…現実に引き戻された…」
「仕事のことか」
「エリだ。アパートに置いたままの彼女の荷物を全部スーツケースに入れてホテルまで届けろってさ」
エリの名前を聞いて、卯藤も少し神妙な顔つきになった。
「彼女…今どこに」
「カモンエス広場真ん前のバイロ・アルト・ホテルだと。土曜のフライトで日本に戻るからって。ええっと…それから…ホテル代と日本までのビジネスクラスの航空券代も現金で持ってこい?…あーあ…」
片岡は思わず大きな溜息を漏らしたが、それも仕方ないことだと思った。
彼女に対する自分の非は大きい。俺は最後まで彼女に謝罪の言葉をかけなかったが、それは…自分がもし彼女の立場だとしたら、謝られて気が済むどころか、怒りが増すばかりだと感じたからだった。
作品名:LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結) 作家名:里沙