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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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 卯藤のベッドの上でやっと片岡が目を醒ました時には、窓の外はすっかり暗くなっていた。時計を見ると八時近かった。もう五時間近く眠っていたことになる。慌てて起き上がろうとした片岡は、ベッドから少し離れたところに卯藤が腰掛けていることに気づいた。
「…すまん、こんな遅くまで」
 半身を起こして罰が悪そうに頭を掻く片岡に対して、卯藤は静かに首を横に振った。
「いいんだ…それより、背中はまだ痛むのか」
 卯藤は立ち上がり、ベッドに近づいてきた。そのままベッドの端に腰を下ろしたが、顔は壁に向けたままだ。
「多少な…でも、随分治まったよ。ありがとう。助かった」
二人はそのまま、暫くの間黙っていた。
「なあ…」
「…あの」
 やっと口を開いてみれば二人同時で、また言葉を詰まらせる。
「…お前が先に言えよ」
 片岡が卯藤を促した。
「…今日、彼女と、話の途中で勝手に…」
「エリのことか」
 卯藤は唇を結んで、俯いた。
「……失礼なことをしたと、俺が謝っていたと伝えてくれ」
「…」
 卯藤はエリから聞いていなかったのか…。片岡は鼻で笑いつつ、溜息をついた。
「済まないが…それは引き受けられない」
「え…」
「終わっちゃったんだ。彼女とは」
 罰の悪さを隠すように、片岡はわざと語尾を茶化した。だが、卯藤は片岡の言葉にひどく驚いたようで、身体ごと振り返り片岡の顔を覗き込むように見つめた。
「な…何で…?だって、あの時」
 君は彼女を追って、俺の前から…と畳み掛ける卯藤を、片岡は苦笑いで制した。
「それはお前の勘違いだ。俺はエリを追っていかなかった。あの時は…エリからも、お前からも逃げてしまったんだ。どうしていいのか本当にわからなくなって」
 話が核心に近づくにつれ、胸の奥が縮むような感覚に苛まれる。卯藤の顔を見ることも出来なくなって、今度は片岡がベッドの上で半身を起こしたまま俯いた。
「今日、偶然お前とエリがサンタルジアで会うことを知って…それでもまだ迷ったままだったけど、俺もあそこへ行ったんだ。お前は既にいなかったけど…そのままエリと…いや、エリに言われてやっと、俺は自分の本心に気がついた」
 全く情けない話だ。自分で自分のことをすっかり見失っていたのだから。
「エリに対しても確かに…結婚を決意できるだけの感情は持っていたんだ。だが…リスボンに来て、このカフェでお前に再び会った時から……お前に対する想いが、彼女への想いを超えてしまった」
「誓……?」
 卯藤は唇を震わせた。嘘だ。まさかそんなこと…
「ずっと迷っていたのは、多分エリをリスボンまで連れてきたのに、今更…という…何ていうんだっけ。一番嫌われるあれだ」
 罪悪感。
 彼女より卯藤を好きになってしまったことよりも、自分に対して罪悪感を持たれたことに、エリは傷ついて怒りをあらわにしたのだ。
「エリには強烈な平手打ちを食らって、袖にされたよ。俺がはっきりしないせいで、彼女もお前も大迷惑したんだって。本当にその通りだよな」
 だから今度こそ、はっきり伝えなければ。
「…恥知らずを承知で、言ってもいいか?」
「……何」
「もう一度、お前を好きになった、って」
 やっと言えた。これ以上素直に言えないほど素直に。これで、卯藤からどんな言葉を返されても、まっすぐに受け止められる。
「いつから」
 ややぶっきらぼうに、卯藤が尋ねた。
「多分…十年ぶりに会った、あの日から」
 白い肌、猫毛で僅かに茶色がかった髪、鼻筋の通った顔、細くて綺麗な顎の線。耳をくすぐるような少し気だるい、甘い声。しかしその姿とは裏腹に、決して幸福とは言えない生い立ちを淡々と乗り越えて自分の生き方を見据える強さと賢さを併せ持っている。…時折、その瞳が孤独と寂しさに翳ることがあっても。
 大人っぽくなってはいたが、昔と余り変わらない彼の姿を見たその時から自分の中の時が遡り、嘗て彼を愛した記憶までたどり着いたのだ。
 もしも…まだお前が望んでくれるなら、精一杯抱きしめて、耳元でそっと囁こう。もう、そんなに寂しい瞳をしなくてもいいと。
 卯藤の唇が何かの言葉を象ろうとした。だが、上手く声が出なかった。
「…か…」
 それは、喉元まで嗚咽がこみ上げてきたからだ。
「ばか…馬鹿!…何で…だったら何でもっと…」
 もっと早く伝えてくれなかったのか。片岡は、声にならない卯藤の声を受け取った。
「うん…そうだな」
 頼りない返事とは裏腹に、片岡は卯藤がうっとりするほど穏やかな笑みを浮かべて、やがて両手を卯藤に向かって差し出した。
「…瞠…?」
 お前はどうなんだ?
 自分に呼びかける片岡に対する卯藤の答えは、とうに出ている。
 彼は、迷う事なく腕を広げた片岡の胸に飛び込んだ。


「誓…誓、愛してる」
 卯藤の瞳から涙が零れた。そして、半ば呆然と彼を見つめていた片岡の整った顔も、やがて泣きそうな子供のようにくしゃりと歪んだ。
「俺もだ…」
 体を起こしかけていた片岡は声を震わせて、卯藤の上に身を投げ出すように倒れこんだ。そして、髪やうなじ、背中…我を忘れたように卯藤の全てをかき抱いた。
「愛してる。瞠…お前以外にはもう、考えられない」
 彼を抱いて彼の中に己を浸しながら、何度悔やんだことだろう。
何故十年前のあの日…、俺は瞠を置いてこの街を離れてしまったのだろうと。結局俺はあれからずっと…彼以上に愛せる人には出会えなかった。
今だって瞠を失いたくないばかりで、まるで縋り付くように彼を抱くことしかできないというのに?
「だからずっとこの街に…お前の側にいてもいいか」
 片岡の言葉に卯藤の瞳は一層揺らいで…また大粒の涙が頬を伝う。
「…とっくに言っただろ。ずっとそばにいて…って」
「…そうだったな……」
何度も、何度も唇を重ねる。
濃密な呼吸が溶け合い、やがて重なり合う胸から互いに伝わる鼓動が大きく、早くなっていく。
そして一切の懸念は消え去り、二人はひたすら底の見えない快楽に溺れていった。

 エリのことも、闘病の果てにこの世を去った彼女のことも、間違いなく好きだったけれど、瞠は二人とは決定的に違うのだ。彼女達に対しては…自分が守らなければという気概ばかりが先に立ってしまった。それも今となっては過ちだったかもしれないが。
 瞠のことは、もちろん彼に何かあれば必ず助けになるのだと心に誓っている。だが彼に対しては、守ってやろうと考えるなどおこがましいと思う。一瞬だけ弱々しさを見せた事もあった。だけど彼はもとから芯が強くて、自立した人間だ。自分の方こそ…時には瞠に寄りかかって安らぎを求めていた気がする。そう、俺には彼が必要だ。彼の側では弱さも欠点も全て曝け出して、本当の自分でいられる。そんな簡単なことを十年離れてまた出会って…やっとわかったなんて。
 だが、そのための十年だったのだと思うことにしよう…

 まだ半分目が醒めていないままベッドに横たわり、そんなことをぼんやりと考えていた。しかし、次第に意識がクリアになってくると、片岡はまず、隣に卯藤がいないことに気がついた。ああ、もう仕事に入ったのか…