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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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 謝罪とは皮肉なもので、「した」側ではなく「された」側がその言葉の重荷を背負うものなのだ。だから彼女には一切負わせたくない。全て自分が引き受けるべきだ。今、自分の目の前に瞠がいてくれるのは、エリが一人で日本に帰っていくことと引き換えに得た幸福だ。だからこそ…尊い。
 そのことをずっと忘れないでおこう。

「どうしたんだ。大丈夫?」
 片岡が黙ってしまったので、卯藤は心配して声をかけた。
「ん?…何でもない。現金おろしてこなきゃなあ、とか思って」
「現金…あ!そうだ!すっかり忘れてた。君に十二年前借りた金、今日こそ返すから!」
 つくづく生真面目な男だ。部屋にでも取りに行くつもりなのか、慌ててカウンターを離れようとする卯藤を、片岡は止めた。
「いいって。また今度で…」
「良くない。そういうの嫌なんだよ。君も言ったろ。絶対返して貰うって」
「絶対…返して貰うけど、とにかく今日じゃなくていい」
 今度は、卯藤がため息をついて首をすくめた。
「変な奴」
 何故だか…ここで借金を返されたら何かが途切れてしまうような気がして嫌なのだ。貸した金ですら卯藤との絆には変わりない。
「それより…アパートどうしようかな」
 エリが見つけてくれた今のアパートに一人で住み続けるべきか、悩む。
「住み始めたばっかりだろ?何か問題でも?」
「いや、いい部屋だよ。ただ、エリが選んできたアパートだし、俺がこのまま住むのって…どう思う」
 片岡としては正直なところ、部屋を変わって気分を一新したい気もする。今ではそれぞれ互いの生き方があるし、卯藤とは当分一緒に暮らすことはないだろうが、休みの日には彼を部屋に呼んでゆっくり過ごしたいから。
「君が気になるなら…でも、別にずっと住んでてもいいと思うけど」
「そうだな…でも一つだけ、あの部屋ですごく気に入ってるものがあるんだ。玄関を入ってリビングに抜けるちょっとしたホールがあるんだけど、その壁にちょっと大きいアズレージョの壁画が嵌めてあって」
「タイルを張り合わせて作ってあるような?」
「ああ、それ。花が咲いてる街路樹の絵で…綺麗なんだ。何の花か知らないけど」
 街路樹、花。そして目の前にいる男に似合いそうな…卯藤はある名前を思い出した。
「ジャカランダ…かな」
「何だって?」
 花の特徴を言ったわけでもないのに?と言いたげに片岡が眉を寄せるのを見つめながら、卯藤は聞いてみた。
「わりと大木で枝が広がってて…花は鮮やかな…青みがかった紫?」
「…お前、何でわかるんだ。うちに来た事ってなかったよな?」
 ジャカランダはこの街では夏に花を咲かせる。それもまた、明るくて行動派の片岡のイメージと重なるかもしれない。
「もちろん、ないよ。何でかな」
 片岡はいよいよ解せないようで、腕を組んで首をひねって見せたが…やがて何かが腑に落ちたようにあっさりと言い放った。
「よし。決めた。このまま今のアパートに住む」
 卯藤が見た事もない絵に描かれた花の名を当てたのだ。何か縁がありそうな気がする。
「いいんじゃない。また引っ越すよりは…それより、誓、時間はいいのか」
「時間…うわっ!ヤバい!もうギリギリ…」
 スマホをポケットに戻して、片岡は大慌てで店を出ようとしたが、もう一度未練がましくショーケースに並ぶナタを見た。食べたかったが、その時間はない。
「それじゃあ…行くよ。その…明日…水曜日だよな」
「ああ、早く閉めるから…夕方来れば」
 卯藤は何かの作業をしながら答えた。…ごく当たり前のことのように。
「……そうする。また明日」
「…誓」
 今度こそ外に出ようとカウンターから背を向けた片岡を卯藤が呼び止める。振り返ると何か放り投げてきた。片岡が掌を広げて受け止めると、それは小さな紙袋だった。
「持ってけよ。奢りだ」
 薄いハトロン紙の紙袋の中に、ナタが3つ入っている。袋の中身を見た片岡はまるで子供のように笑顔を弾けさせた。
「オブリガード」
 紙袋を高く掲げて礼を言うと、片岡はアルファマの路地に駆け出して行った。
 半ば呆れたような笑顔で、卯藤は片岡を見送った。だがその表情とは裏腹に、心の中は涙が出そうなほど熱くなる。

 本当に、彼は帰ってきたのだ。
 相変わらず、明るく笑って…
 そして相変わらず、このちっぽけな何でもない菓子が大好きで…

 夜のうちにまた雨が降ったらしい。路面は濡れていたが、今はもう、雲の間から青空が見えていた。雨上がりの暖かい空気は、冬の季節には一段と心地よく感じる。しかしそれは僅かの間で、じきに冷たい風が街を覆うだろうが…。それを繰り返しながらも少しずつ春は近づいてくるのだ。
 トラムのルート沿いに暫く歩いていったが、生憎出くわすことができず、結局カテドラル近くのバス停まで坂道を下る羽目になった。
 バス停に着くと、今度はバスが行ってしまったばかりのようで、通勤時間帯なのに誰も待っていない。片岡は仕方なくバス停のベンチに腰掛けて、卯藤がくれたナタを紙袋からひとつ取り出し、頬張った。歯を当てると僅かにぱりぱりと音がして、なめらかでコクのあるカスタードが口の中に蕩け出す。
「美味い…」
 これはもう、ベレンの老舗のナタと比べても遜色ない味に違いない。卯藤がこの街でずっと努力を重ねて来た証だ。全く、大した奴だと思う。
 ベンチの目の前からは古ぼけた家々の屋根が見える。あの向こうにはテージョ河が広がっているだろうか?
 卯藤の店は夏の繁忙期以外は日曜休みだと言っていたから…
 日曜になったら、また二人でリスボンの街を歩こう。まだ行ったことのない場所…ハイシーズンに入る前に、一緒にジャカランダの花も見に行ってみたい。
 あるいは、かつて一緒に歩いた場所も…
 そして、二人の記憶の欠片を一つずつ拾い集めて、アズレージョで飾るように繋ぎ合わせていけば…


 きっと、美しい絵が描けるだろう。




                              完