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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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 だって、あの時彼は…走ってあの場を離れた私を追ってはこなかった。どんなに腹の立つ言い訳をされても、たとえ私に隠れてその後も卯藤と会うかもしれなくても…
 あの時追いかけてきてくれたら、それ以上の何も要らなかったのに。
 彼は、私ではなく卯藤を選んだのだと思う。だったら…私にはもうなす術がない。怒って、泣いて、それで片岡をもう一度繋ぎ止めることが出来たとして、彼の本心が卯藤にあるなら一体何の意味がある?
 だからせめて…卯藤に直接言ってやりたい。
 私だって、片岡誓を愛していると。
 私の心を踏みにじってあんたは彼を手に入れたんだと、はっきり言ってやらなければ気が済まない。
 どうにか卯藤に対峙する覚悟を決めて、エリは時間のことを思い出して腕時計を見た。丁度二時だった。そして卯藤の姿を探そうと振り返った先に…既に彼が待っていた。


 互いに、言うべきことも、答えるべきことも決まっていたはずだった。だが、いざ顔を合わせてみると…二人とも無言で、重苦しい空気だけが流れていた。
 気がついたのは卯藤が先だった。エリの服装や持ち物が全く昨晩のままだ。化粧も…何となく褪せていて昨晩から直していないのでは、と感じた。何だか変だ。片岡は自分と結婚するのだと、勝ち誇って宣言しにきた女の姿からはほど遠い。表情には疲れが見えて、暗く強ばっている。まるで彼女の方が苦悩しているかのようだった。一方の卯藤は濃いピーコックブルーの、少し珍しい色のウールの半コートの下に、チャコールグレーのタートルネックのニットを合わせていた。色白の卯藤にその色彩がよく似合い、エリは男性相手に初めて気後れするのを感じた。
「あの…お話って何でしょうか」
 ようやく口を開いたのも卯藤の方だった。
「…誓とあなたは、いつからそういう関係?」
 卯藤が予想した通りの問いだった。だから彼も用意した答えを返す。
「俺と誓のことは…もう十年前に終わってます」
「でも昨夜…いいえ、ずっと会ってたでしょう。水曜日に」
 電話で聞いた時のように、エリの口調には殆ど抑揚がない。それが却って卯藤の感情を圧迫した。彼女が自分に向けている怒りをひしひしと感じる気がする。
「それは彼が俺の部屋へ来るから…でも彼は本気で俺とよりを戻すつもりはなかったと思います。もう二度と来ないと思うし」
「どうして、そんなことがわかるの」
「どうしてって…」
 卯藤はエリの質問の意図を計り兼ねた。
「婚約者のあなたがいるからでしょう?彼にとって、俺はあくまで遊びの対象だった。昔なじみで、ちょっと手を出すにはちょうどいい、くらいの。でも昨夜のことで懲りたんじゃないですか」
 少し、意地の悪い言い方だとわかってはいた。だが卯藤もこのくらいは言い返さなければ気が済まないような気分になっていた。だが…
「何それ…」
 氷のように冷静だったエリの声が突然上擦った。
「一体何の嫌味のつもり?そっちこそ…あなたこそ、私から彼を取ったんじゃない!昔そうだったからって…何で今更…」
「今更…なんかじゃない。俺は十年前にあいつが出て行ってすぐに気がついたんだ。やっぱり誓が好きだって…何度も忘れようとしたけど無理だった」
 卯藤の声にも涙が混じっていた。
「でも、二度と会わなかったらいつかはと思ってた。そしたら昨年の十一月に…突然君たちが目の前に現れた」
 それでも、関わってはならないと自分から決して片岡に声はかけなかった。だが片岡の方が店にやってきて…。卯藤は今までのことを全てエリに明かした。
「そうだ、もしかしたらって俺もちょっとだけ期待した。でも…」
 頬を涙でぐしゃぐしゃに濡らしている卯藤に、エリは咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
「昨日の晩、誓と一緒にいるところを君に見られてすぐに…あいつは…俺の前から去ってしまった」
「え…?どういうこと」
 卯藤の言葉は予想と余りにも違っていた。だが驚いたエリが聞き返す間もなく、卯藤は涙声のまま、『お幸せに』とだけ告げると、彼女の前から走り去ってしまった。
「どういう…ことなのよ…」 
 それは…つまり…
「逃げたの?私からも、あの人からも…」
 暫くの間呆然としていたエリは、また誰かが背後にいる気配を感じて振り向いた。
「エリ…」
 そこにいたのは片岡だった。卯藤とエリが会う約束をしたことを偶然知った彼は、二人が心配になってここまで来たのだが、既に卯藤はこの場を去った後だった。
「よくも…のこのこ出てこられたわね」
「一切、言い訳はできないと覚悟してる」
 片岡は目を閉じて少し俯いた。それはエリに何を言われても甘んじて受けるという意思表示のようにも見えた。
「じゃあはっきり言って。どうして昨夜は逃げたの?私を追ってもくれなかったし、卯藤さんの前からも去ったのよね?」
 片岡は暫くの間黙り込んでいた。しびれを切らしたエリが答えを促そうとすると、やっと彼はかすれた声で話し始めた。
「リスボンに来て瞠にアルファマで再会した時に…運命が決まってしまったと思っている」
 そう切り出すと片岡はずっと閉じたままにしていた目を開けた。そして瞼の下から現れた、彼の瞳は…
 見覚えのある、澄み透った…だが寂し気に遠くを見るあの瞳だった。パリで再会して、彼が亡くなった婚約者のことを話した時の、そしてリスボンで卯藤に再会した時の…。そしてエリは既に問うまでもなく、自分か卯藤か、片岡の心がどちらにあるのかを悟った。
「だが、それを自分でも認める勇気がなかった…本当に、まさに今まで、ずっとだ」
 十年前だって、どちらかといえば自分から卯藤を振るようにしてリスボンを離れたのだ。それを今になってもう一度欲するなんて…挙げ句に、自制しようとした反動で、却って強引に彼と関係を持ってしまった。そんな自分とどうして今更やり直して欲しいと言える?
 片岡が話すことを、エリは黙って聞いていた。
「…君のことは…」
 片岡が再び言葉を詰まらせた。
「今更、引くに引けなくなった…とか言うの?」
「それは…」
 恐らく、エリの言う通りなのだ。彼女の言葉が片岡の心に突き刺さる。
「婚約して、日本から遠く離れたポルトガルまで連れてきておいて、今更別れてくれなんて言えない、とか」
「…」
「何より、私を傷つけたくないとか、そう思った?」
「きっと…そう思ってた…」
 片岡がそう答えた瞬間、灼けつくような傷みが頬に走った。
 エリが、平手で片岡を打ったのだ。
「意気地なし…」
 彼女の声は、しかしきつい言葉といたは裏腹に震えていた。
「卯藤さんのことも私のことも…今更そんなこと言えない、傷つけたくないって?結局、ずっと逃げてただけよ。自分の本心と向き合うのが怖かっただけでしょ!」
 エリの言葉に、片岡自身が当てはまらないことは一つもなかった。
「無理なのよ。こういう話でね、誰も傷つかずに済むなんて…できっこないの。どうしても傷つかなきゃならない人がいるのよ!」
「エリ…」
「今回は…残念だけど…私にその役目が回ってしまった」
 彼女に返す言葉が見つからない。片岡が何か言おうとすればするほど、エリを一層傷つけてしまう気がして。
「その上に、ぐずぐずしてるうちに卯藤さんまで苦しめたじゃない…」