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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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 おはようございます、と出勤してきたスタッフが作業場の入り口から声をかけてきて、卯藤は作業の手が止まっていたことに気がついた。スタッフに挨拶を返して、彼は再び作業に戻る。
 ということは、俺の場合は結局元の木阿弥だ。片岡のことを…忘れることも諦めて、彼の記憶とどうにか生きて行く。
 卯藤は深く深呼吸しようとした。とりあえず何とかして自分の感情を落ち着かせて、平静を保ちたかったからだ。だが…その時電話の音が鳴り響いた。その音に反応して作業場を出ると、女性スタッフがシンクの前で困った顔をして卯藤を見つめてきた。見ると手が泡だらけである。食器か何かを洗っている最中らしい。卯藤は頷くとレジに駆け寄り、脇に置いてあった電話を取った。手に製菓用の小麦粉がついていたがもうお構いなしだ。
「アロー」
「…もしもし。…卯藤さん?」
「…はい」
 日本語だった。若い女性の声だ。彼女が名乗るまでもなくそれが誰なのか察しがつく。電話番号は…ウェブサイトで探したのだろう。卯藤は表情を強ばらせ、コードレス電話を落とさないよう強く握りしめた。動揺しているのが自分でもわかったからだ。
「三上エリです。…すみません。今日のうちどこかでお時間を頂けませんか?少しお話があるんですけど」
 比較的丁寧な口調だが声色には全く抑揚がなく、その不気味さが卯藤を尚更不安にさせた。とても断れるような雰囲気ではない。
「わかりました。午後の二時頃でしたら。場所は…」
「サンタルジアの展望台で。卯藤さんのお店からも近いでしょう」
「では、サンタルジアの展望台に、二時に」
 宜しく、と一言残して電話は切れた。
「オーナー、大丈夫ですか?顔色が悪いみたい。今の電話が何か?」
 電話が切れた後も受話器を持ったまま卯藤がその場を動かないので、スタッフが心配して声をかけた。
「…ああ、何でもない。それより、今日の二時からちょっと店を空けるけど、大丈夫かな」
「銀行に行かなきゃならないんですけど…オーナー、オーブンの番と店番の両方できます?だったら午前中に急いで行ってきます」
「どうにか調整するよ。悪いね」
 カウンターをスタッフに任せて卯藤は再び作業場に戻り、今度こそ大きく息をついた。きっと彼女は自分に釘を刺しにくるのだろう。二度と片岡に近づくなと。そんなことはわかっている。彼はあの後きっと彼女を追って和解したはずだ。自分にはもう手が届かないとわかってるんだから、そっとしておいて欲しい…と、今になってだんだん苛立ってきたのだが、さっきの電話で卯藤がそう言えなかったのは、彼女の口調に違和感があったからだ。あの時は何故か…彼女の考えていることが全くわからなかった。
とりあえず彼女に会って、彼女の言い分を聞いて引き下がる演出をすればいい、と卯藤は考えた。
 それで今度こそ、全て終わりだ。

その朝、片岡はと言えば、一応事務所には出てきたものの全く頭が働かなかった。嫌でも身体を動かして仕事をする卯藤とは事情が違うようだった。しばらくすると一層心身の疲れが増してきて、我慢ができなくなった片岡は商談があると偽り、雑務をこなして貰うために最近雇ったスタッフに一言告げて、カモフラージュのタブレット端末を持って外に出た。どこかのカフェでコーヒーを飲んで、できれば少し眠りたかったが、銀行に用があることを思い出した。ほんの小さな手続きだが事務所でスタッフを一人働かせておいてさぼるのも気が引けるので、ちょうどいい口実だとばかりに、銀行のある通りに向かって歩いた。すると、銀行のすぐ側で見覚えのある顔と出会った。向こうも片岡を覚えているらしく、笑顔で挨拶してきた。卯藤の店で働いている女性だった。何となく、二人連れ立って銀行のオフィスに入ることになった。
「彼の店もここが取引銀行なんだ」
「そうなんです…って、嫌だ。すごく混んでる…早く帰らなきゃいけないのに。いつ終わるかな」
 3つか4つの窓口に対して明らかに待つ客の数が多いことに、彼女はうんざりしていたがどうにもならない。二人は受付の整理券を取ってベンチに腰掛けて待つ事にした。
「卯藤は、時間にうるさい奴なの」
「それほどでも…だけど今の時間はまだお菓子が出そろっていないので、オーナーが作業場とカウンターの間を走り回ってると思うと焦っちゃうんです。本当はもっと余裕が出てからにしたかったんですけど、オーナーは二時に急に人と会う約束が出来たって…もしかして、片岡さんのこと?」
「いや、俺じゃないな」
「ですよね…何だか深刻な顔して電話に出てたから」
 嫌な予感がした。まさか、電話をかけてきたのは…
 片岡はさりげなく卯藤の出かける先を聞き出そうとした。
「それにしても、午後からはお客さんが増えるから、あなた一人で長時間切り盛りするのも大変でしょう」
「そうね。昼からは本当に…でも今はオフシーズンだからましな方。オーナーもすぐ近くのサンタルジアの展望台まで行くだけみたいだから。そんな場所を選ぶってことは話も長くないと思うし、どうにかなります」
 サンタルジアの展望台…午後二時。片岡は場所と時間を密かに記憶した。
「もっと人を雇えばいいのに…そのくらいの余裕はありそうなもんだ」
「そうしたくて求人を出してるんですよ。でもうちはハードだから、いい加減な子じゃ勤まらなくてすぐ辞めちゃうの」

 天気は良好だったが、気温が低かった。恐らくリスボンではこの冬一番の寒さかもしれない。
 午後二時のサンタルジア展望台。アルファマ地区の中にあり、無数の建物が密集する様子を間近に見下ろせる。リスボンの代表的な景観を写した観光写真は大抵ここから撮影されたものである。冷たく乾燥した空気のお陰で、この日は建物の屋根のオレンジ色が一層鮮やかに、空の青に映えていた。
 時間より少し早く待ち合わせ場所に到着したエリは、展望台となっている広場のフェンスに腕を乗せて、ぼんやりと眼下に広がる景色を見ていた。
昼間なのに観光シーズンではないため、こんな名所でも辺りには殆ど人がいなかった。 
 昨晩、卯藤の店の前で抱き合う二人を目撃したあと…逃げるようにその場を離れて、丁度出くわしたトラムに乗った。バイシャ方面へ行くトラムでそのままシアード地区、カモンエス広場の前まで行き、広場に面してホテルがあったのでそこに泊まった。今日も、ホテルの前のトラムの停留所からここまでは乗り継ぎなしで来られた。…以前、片岡ともトラムでこの広場へ来たことがあったからよく覚えている。
 この街へ来た当時はずっと文句ばかり言っていた。田舎、退屈、街が綺麗じゃないとか…。だけど片岡と一緒にいれば本当はどこにいたって楽しかった。そのことを彼に伝えられていなかったから、こんなことになったのだろうか?
 だけどやっぱりそれだけじゃない。片岡にとって卯藤の存在は特別だったのだと思う。そのことを片岡自身忘れていた…いや、忘れたつもりでいたのだろう。そうと知らずに片岡と婚約して、元の職場の同僚や友人にも散々羨ましがられて得意になっていた自分が滑稽すぎて笑えてくる。