LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)
片岡に会えば会うほど、もう関わってはならない、関われば自分がそれだけ傷つくだけだと思う一方で、彼のことで頭がいっぱいになっていく。今日は菓子を焼く時間を間違えて店に出せなくなったものがあった。ここに店を出してから今まで、こんな失敗をしたことはなかったのに。ケースの中から丁寧に焼き菓子を取り出してトレーに載せる片岡の手を思い出しているうちに、オーブンを止めることを忘れてしまったのだ。少し骨張った、形のいいあの指にどれだけ肌を触れられて、敏感な部分を愛撫されただろう?…仕事の合間にまで馬鹿みたいな想像をして苛々して。
こんなに、片岡のことしか考えられなくなって…もしまた彼に会ってしまったら…一体自分はどうなるのか不安でたまらない。
卯藤はカウンターから出てテーブルの上に椅子を逆さに置いて片付けを始めた。店じまいの準備が終わると、扉に閉店のプレートを下げる為に外に出た。店の前の小さな広場には元々彼のカフェ以外に店もなく、いつもならもう誰もいないはずだった。広場から通りへの出口付近に小さな街灯があって、かぼそい光が夜の闇に浮かんでいるだけ…
だが、プレートを扉の取っ手にかけた卯藤は、背後に気配を感じた。
誰かがいる。でも、まさか…
卯藤の首筋から脳に向かって震えが走った。そして足元にも。
彼は、そこに誰がいるのか確かめることはなかった。
振り向きざま両腕をのばして、胸元に飛び込んでいった。
「もう、二度と来ないつもりだったのに…」
喉の奥から絞り出したようなその声をかき消そうと、卯藤は彼の首に縋るように腕を絡めて、夢中で口づけた。
「瞠…」
「誓…俺は…」
腫れ物にでも触るようにそっと、片岡も卯藤の背に手を回そうとしたが口づけの合間、熱い吐息と共に漏れた卯藤の言葉にその手が止まる。
「君を愛してる…」
その言葉とともに、卯藤の中でずっと封印されていたものが堰を切って溢れ出した。
「だから…もう俺の前から…消えないでくれ」
片岡は凍り付いたようにそのまま動かない。だがもう止められなかった。まるで激流のように、卯藤自身も驚くような言葉や感情がこみ上げてくる。
「ずっと…ここにいて」
どこにも行かないで。
俺を愛して。
俺だけを見て、俺だけに触れて。
そんなことを望んだら、きっと片岡を苦しませるのに…
ふいに片岡の手に力が籠もり、卯藤の背と腰を抱き寄せた。片岡の掌から伝わる熱に、卯藤はあたかも彼に自分の心が伝わったかのような感覚に陥った。深い溜息をついて、片岡に身を預ける心地よさにうっとりしながら、卯藤は片岡の肩越しにうっすらと目を開けた。
その瞬間、恐怖に限りなく近い驚きで卯藤は目を見開き、今度は自分が片岡の手を払いのけて後ずさった。
卯藤の様子に異変を悟った片岡が振り返った先に、シャンパンゴールドのダウンコートが見えた。そのコートの持ち主を…片岡はよく知っている。
「エ…」
名前を呼ぼうにも、片岡もまた驚きのあまり、声がまともに出なかった。
エリは…今まで見た事もないような、青ざめて険しい表情をしていた。暗闇の中で街灯の光だけではよく見えなかったが、口元も僅かに震えているように見えた。片岡が彼女に近づこうとすると…エリは踵を返してその場から走り去った。
「エリ!」
やっと彼女の名を呼んだ片岡だったが、エリは振り返ろうとしなかった。呆然とその場に立つ片岡を、卯藤もまた不安げに眉を寄せてじっと見つめている。彼はこの後どうするのだろう、と…。
それは、ほんの十数秒ほど後だったろうか?
一歩…また一歩、片岡が歩き始めた。その歩みは次第に早くなり、やがて彼は走り出す。…卯藤に背を向けて。
「誓…!」
卯藤が呼ぶ声にもまた、片岡は答えなかった。ぼんやりと彼の後ろ姿を見つめる卯藤の瞳から涙が溢れる。
自分の思う全てを片岡に曝け出した。これは賭けだった。全てを伝えればもしかしたら…と、僅かな期待を抱いて。
だが結局、片岡は去って行った。
その場に崩れ落ちるように冷たい石畳の上に膝をついて、卯藤は片岡が消えた路地の向こうを見つめていた。
その晩、エリはバイロ・アルトのアパートには帰って来なかった。仕方なくアパートに戻ったものの片岡はどうすることもできず、かと言って眠る事もできず、結局リビングのソファに座ったまま朝を迎えた。眠れなかったのは…片岡自身に対する嫌悪のせいだった。彼のしたことはエリを傷つけ、卯藤の気持ちにも答えずじまいになったのだから。
俺は逃げたのだ。自分の本当の気持ちがわからなくなってしまった。
…いや、違う。本当はわかっているのだ。だがあの場で認めるのが怖かっただけだ。自分がこんなに臆病で卑怯な男だとは思ってもみなかった。
最低だ。
俺にはもう、一切の資格はない。エリと瞠のどちらを愛する資格もない。二人もきっと、俺を二度と許さないだろう。
後悔や惨めさや…様々な感情が入り交じる。片岡は目頭を押さえて滲んだ涙を止めようとした。だが叶わず、指の間から涙が頬を伝って落ちた。
片岡はエリの携帯に電話をかけてみた。しかし当然応答はなかった。ホテルかどこか…安全な場所にいてくれればいいのだが、と思いながら片岡はソファから立ち上がり、寝室へ行ってクローゼットを開けた。もう出かけなければならない。事務所を開ける時間が近づいてきたからだ。
こんな状態でも、仕事には行くのか。
片岡はひとり、憔悴した顔に苦笑いを浮かべた。
卯藤は一人、カフェの奥にある作業場で菓子作りをしていた。あと二十分で開店だ。それまでにショーケースにナタだけでも置かなければならなかった。朝の八時とカフェにしてはやや遅い開店だが、住民の通勤ルートとは外れるこの地区では仕事前のビカを求める者はそれほどいない。
卯藤の作るナタには、タルトの中のカスタードにほんの少しだけ天然のバニラで香りをつけている。レモンやワインを使って作るものもあるが、やはりこれが一番人気だった。客には殆ど気づかれない程度に、だが卵特有の匂いを抑えてやわらかな風味を演出するための、卯藤の秘策の一つだった。そのために作業場はバニラの甘い香りに包まれている。
しかしその香りとは裏腹に…成型したパイ菓子の種を次々とオーブンに入れながら、卯藤の表情はひどく陰っていた。正直なところ、今朝はいつも通りに起きて仕事ができるかどうかわからなかったほど、昨晩は身体が動かなかった。何もしたくない、何も考えたくない、もう生きていたくないとまで思った。
自分の目の前で片岡が背を向けて去ってしまった。それは卯藤から全ての希望を剥ぎ取ることに等しかったから…。
それなのに、翌日になれば自然と身体を起こして、仕事場へ降りて、すっかり身に付いた段取りで黙々と仕事を進めている。こんな時でさえ…。
人間とはそういうものか。心がどんなに辛くても身体は…何事もなかったかのようにいつも通りの生活をしようとする。こうして殆どの人間は、ギリギリのところで生かされているものなのか。そしてあわよくば辛い記憶もいつかは忘れて…。
忘れられるだろうか…本当に?だって十年も彼のことを忘れられなかった俺が?
作品名:LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結) 作家名:里沙