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LISBOA 記憶の欠片 後編(11月8日完結)

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「…彼に、何か話があったんじゃ…?」
 出て行く卯藤の後ろ姿をじっと見つめていた片岡は、ジョアンの声で我に返った。
「いや…特には。彼も忙しそうだったし」
「彼の店は片岡さんのホテルの予定地の目と鼻の先でしたよね。彼の店にもよく行かれるんですか」
「…それが、意外に機会がなくて」

 ワインのボトルやグラス、チーズやハムなどが置かれたテーブルに焼き菓子が山積みになったトレイが運ばれると、招待客たちは早速菓子を手に取って甘い香りを楽しんでいた。卯藤の説明に拠れば、三つのケースに分けたナタは見た目は殆ど変わりないが、一つがオードソックスなもので残り二つがそれぞれポートワインと、レモンの皮で香りをつけたものらしかった。
 家具のデザイナーと一通り話を終えたエリも片岡の姿を探しつつ、たまたまテーブルの近くに来たので、客達が争うように手づかみしているナタにつられて手を伸ばしたが、口にしてすぐに覚えのある味だと気がついた。
「エリ。そこにいたのか」
 片岡に呼ばれて彼女は肩越しに振り向きながら、首を僅かに傾けた。
「もしかして…卯藤さんも来てるの?」
「いや、すぐ帰ったけど…って、何で知ってる?」
「知らなかったけど。だってこれ、卯藤さんとこのエッグタルトでしょ。食べたらわかるし」
 片岡は目を丸くした。
「わかるのか…そりゃ驚いた。ジョアンと一緒にいたら彼がこの菓子の配達に来たんだ。まだ仕事中だからってすぐに帰ったよ」
「そう…。誓、食べないの?好物でしょ」
「もちろん。貰うよ」
 片岡もテーブルの上のナタに手を伸ばした。一口齧ると、洋酒の香りとカスタードの舌触りを濃厚に感じたが、やがて後味のいい甘みが口の中に広がった。恐らくこれが、あの時卯藤が言っていたポートワインを使った「スペシャリテ」なのだろう。ほんの少し工夫があるだけで決してトラディショナルな製法から乖離していない卯藤のナタは、それでいてどこか洗練された味わいだ。故に昔ながらの味を求める世代にも、新しいものに惹かれる世代にも等しく受け入れられる。デザイナーやアーティストが多く集うこのパーティ会場でも、トレーに山積みされた卯藤のナタはあっという間になくなっていく。それはきっと、殆ど手作業で作っているという小さな焼き菓子の一つ一つに、彼の深い思いが込められているのを誰もが感じ取るからだろう。
 だが、その思いって何だ…?
 ナタを作りたいからリスボンにいる。卯藤はそう言った。ナタ、リスボン、その向こうにある…お前が本当に追い求めるものは何なんだ?
 卯藤は決して答えを口にしない。だが、彼が片岡に向ける眼差しは妖しく揺らめき、踏み入れてはならない領域に誘い込もうとするのだ。
 それは、もしかして…?と、誘われるままに堕ちたいという欲望の前に、だがエリの姿が立ちはだかる。そして急に現実に引き戻されるのだった。結婚を約束した女性を裏切ることなどあってはならないのだ、という苦悩とともに…。
 
 何度も同じことを繰り返してきた。だが、今度こそ終わりにできると思っていたのに。
 今日、卯藤の顔を見て、声を聞いて…
 やっぱり、綺麗だと思った。彼の何もかも。
 そして彼が焼いたナタを口にしたら…
 無理だ、やっぱりどうしても無理だ、と思った。
 俺は…卯藤瞠を断ち切ることができない。
 
 だけど、エリは…?

 まるでアルファマの路地裏を堂々巡りするように、俺は出口の見えない迷宮を彷徨っている。それは追憶が見せる幻想なのか?…いや、そうではない何か、別のものなのか。
 そしてこの迷宮を抜けた先が、思いも拠らない場所だったとしたら?
 その時一体、俺はどうしたらいいのだろう?

「どうしたの?ぼんやりして」
「…ああ…、何でもない」
「でも、顔色が悪いわよ。…疲れてるんじゃない」
 今まで朗らかだった片岡の表情が急に曇り、黙り込んでしまったことをエリは訝しんだ。


その日の夕方は、自宅で軽く夕食を取った。片岡が、食欲がないというので余り物で済ませることにしたがそれさえも殆ど手をつけず、七時頃になって急にいつも仕事に着ていくグレーのカシミヤのコートを手に、出かけてくると言い出した。エリは行き先を尋ねたが、答えはなかった。
 エリはさほど気にしていないかのように、片岡を送り出した。だが、彼がアパートの玄関から外に出たと同時に、エリはニットにデニムの普段着の上からダウンのコートを羽織り、ブーツに履き替えると、必需品の入ったバッグを掴んで自分も外に出た。そして少しの間、先を歩く片岡の後をつけた。彼は南へ…バイロ・アルトの中心に向かっているようだった。だがエリは途中で彼を追うのをやめて、展望台近くからバイシャ地区のロシオ駅付近に降りるケーブルカーのある方へ向かった。この時間になるとケーブルカーの運行は極端に減っているのだが、幸い停留所にケーブルカーが止まっていて、エリが乗り込むとすぐに動き出した。片岡がどこに向かうつもりなのか彼女は確信していたが、片岡に自分が尾行していることを悟られないよう、敢えて違う道筋を使うことにしたのだ。片岡は恐らく、バイロ・アルトからコルメシオ広場方面へ出ていくつもりだろう。
 ケーブルカーを降りてロシオ広場に面したバス停まで歩いた。そこから今度はアルファマへ向かうバスに乗った。アルファマ地区の入り口にあるカテドラルの前まで行けば、そこからはトラムかミニバスで目指す場所に行ける。
 片岡は恐らくあの男の…卯藤の店に行ったのだ。今度こそ確かめなければならない。やはりあの二人の間には、旧友以上の何かがあるのだ。
 だが、そこで自分の思った通りの光景を目にしたとしたら…その時は一体、自分はどうなるのだろう?
 
 一人でバスの座席に座って、外気に触れて氷のように冷たい窓ガラスに頭を凭れさせながら、エリは苦し気に目を閉じた。

 日曜日は本来卯藤の店は定休日なのだが、今日は配達の注文が重なりスタッフにも出てきてもらったので、臨時営業して来週末は土日を休むことにした。
 アルコール類を余り置かない卯藤の店は、午後七時を過ぎると殆ど客はいなくなる。オフシーズンの今ならもっと早く閉めてもいいのだが、手持ち無沙汰なので八時頃までは何となく開けたままにしている。スタッフは既に帰宅したので卯藤は一人でカウンターに立ち、コーヒーのカップやグラスの汚れを落としていた。
 今日、アルカンタラで片岡に会った。ほんの数分、二言三言交わしただけだったが…。ジョアンが運営を手伝っているパーティ会場への配達と聞いて、多少その予感はあったのだが、まさか本当に顔を合わせるとは。その後はずっと…上の空だ。