連載小説「六連星(むつらぼし)」 第76話~80話
連載小説「六連星(むつらぼし)」第80話
「急変する容態の先に」
「おはよう・・・・おっ?
どうした響。今日は朝からずいぶんとご機嫌な様子だな」
「え?。」
寝起きの髪を整えるために洗面所へ向かっていた響が、俊彦に
ひと声かけられる。
ぽかんとした表情のまま、響が不思議そうに俊彦を見上げる。
「なんだ。まだ、寝ぼけているのか?。
そんなにしっかり見つめても、俺の顔には何もついていないぞ。
不思議なのは、お前の顔のほうだ。
昨日は何か特別なことでも起きたのか、なにか良いことでも有ったか?、
それとも、お前に男でも出来たか?
いずれにしても、すこしばかり上気しているような顔つきだ。
女は上気した時の顔が一番美しくなると、昔からいわれている。
お前さぁ・・・・嬉しそうな顔で女らしくなったうえに、
そのうえ艶っぽくなっているぞ。
だがあまりにも唐突で、突然すぎる変化だなぁ・・・
大丈夫か、お前? 熱は無いか?、」
「え。そんなに変ですかぁ・・・・今朝のあたしは」
(あ。今朝はいつもより心が弾んでいるから、きっと、そのせいだ!
それがそのまま、顔に出ているんだわ・・・・)
俊彦が父親だと知った瞬間から、響の気持ちにウキウキとした
弾みがついている。
気持ちの高ぶりは、一晩経っても収まる気配をみせない。
(でもまだ、今はそれをお父さんに語る時じゃない・・・・
こらこら響。浮かれ過ぎだ、お前さんは。)
熱っぽい瞳のままに、鏡に写る自分の顔を見つめて、響が自虐的に笑う。
(・・・・どうしちゃったんだろう。
トシさんが父親だと解った瞬間から、すっかり私の心は浮かれている。
自重しなさい。早まり過ぎているぞ、響は。
あれはあくまでも、山本さんから内緒で聞いたヒントにしか過ぎません。
母か、トシさんから、直接、真相を聞くまでは封印をしておく
必要があります。
あせるな、早まるな。その気になるな、響・・・・
私は昔から有頂天になると、有頂天に走りすぎる癖がある。
自重、自重・・・・はやる心を押さえて、次の機会を待ちましょう)
何度も言い聞かせて、響が、鏡の前で深呼吸を繰り返す
響の気持ちが落ち着いてきたころ、居間で俊彦の携帯が鳴り始める。
(あら、誰でしょう、こんな朝早い時間から・・・・
なにか有ったのかしら・・)
不吉な予感が、響の脳裏を走り抜けていく。
しかし、俊彦の声に乱れは無い。極めて静かに電話に応対している。
「了解した。
岡本には俺の方から連絡をいれる。君の方は処置に全力で当たってくれ。
大丈夫。あとの準備は、もうすべて整っている」
(あとの準備は、もうすべてできている・・・
どういう意味だろう。今の言葉は!)
響の顔色が、一瞬にして変わる。
あれほど元気に話していた山本に異変が発生したのだろうか・・・
嘘だ。絶対に信じられない。
気配を察知した響が、居間に居る俊彦のもとへあわてて走る。
「話はぜんぶ、聞こえたようだね。
山本さんの容態が急変した。とりあえず、病院へ行こう。
君は病院で降ろすが、俺はそのまま岡本を迎えに行く。
岡本と合流したら、また病院へ戻るから、君は病室で待機していてくれ。
予断を許さない事態のようだ」
「嘘でしょう。そんなぁ・・・・私には信じられません。
昨日まで、あんなに元気に、あんなにたくさんお話もしたというのに。
何故なの?なんでなの・・・・だから、最後にあんなことを言ったのかしら。
山本さんが亡くなるなんて、絶対にそんなこと有りえないわ」
「行くよ」
俊彦に促され、上着を手にしたまま玄関をから飛び出す。
山本と病室で別れてから、半日あまりしか時間が経過していない。
あまりにも急すぎる事態に、響の頭の中は、ただただ混乱を深めていく。
(山本さんが亡くなってしまったら、どうしょう。
山本さんと交わしたあの約束を、実行することになってしまう。
死んだら遺骨は、故郷の若狭の海に撒いてくれと別れ際に交わした約束を、
私は早くも実行することになる。
信じられない。こんな風に突然の事態がやって来るなんて・・・・)
「響。人の体は、細胞という小さな袋が集まって出来あがっている。
この中にはDNAという体の設計図が入っていて、古くなった細胞を
作り直す。
年を取ってくると、このDNAが少しずつこわれていく。
その過程の中で、間違った細胞を作り出してしまうことがある。
間違って生まれた細胞、それがガンだ。
放射能は、DNAを破壊してガンの細胞を作り出す。
山本さんのように原発で働き、長年にわたって体内被曝を繰り返すと
すべての臓器に、異常が発生してくる。
それが原爆病だ。ある意味、ガンよりも怖い病気だ。
山本さんを受け入れた時から、最悪の事態を想定して準備している。
だけど響。お前は全く初めての体験だ。
辛いだろうが最善の笑顔を見せてくれないか。
その笑顔のまま、山本さんを見送ってくれ」
朝の空いている道路は、あっというまに二人が乗った車を病院まで運ぶ。
車が玄関先へ乗り付ける。降りようとした矢先、俊彦が手を伸ばし。
俊彦の指が響の右手を、しっかりと握る。
「これから人が死ぬというときに、
それでも笑えと言うのは無理すぎる注文だ。
無理を言っていることも、充分に承知している。
だが、それでもあえて、お前に頼む。
お前は・・・・響は、お母さんの清子から、優しさと強さをもらって
この世に生まれてきた女の子だ。
優しさとか強さは、何度も試練にさらされて、厳しい吟味を受ける。
それでも身体の中に残ったものが、本物の優しさと強さなんだ。
響。生まれて来てくれてありがとう。
いまはそれしか言えないが、君がこの世に居ることに俺は感謝している。
だが、いまは非常事態だ。
こんな出来事の中にお前を巻き込んでしまって、申しわけないと思っている。
だが、一人の真面目に生きてきた原発労働者が、瀕死の瀬戸際なんだ。
頼むから・・・・お前の最高の笑顔で、
山本さんを見送ってやってくれないか」
「わかっています。お父さん。
同じDMAが、響のここにも流れているんだもの。
私も最後の最後まで、山本さんのお役に立つ、つもりでいます」
「良い子だな、やっぱりお前は。じゃ・・・・しっかり頼んだぜ」
それだけ言うと、俊彦が車を急発進させていく。
何も変わらない朝の情景の中で、何かが目まぐるしく音を立てて動き出す。
一人だけ病院の玄関先に残された響が、迫りくる圧迫感に胸を重くする。
心の底で感じています
響が見上げている病院の建物は、まだ朝の静寂の中にある。
ひっそりとしたまま、いつもと同じようにそびえている。
だがその一角にある山本の病室では、生命の崩壊がおとずれようとしている。
(死を前にして、私は最高の笑顔を、つくれるだろうか・・・・)
25年間生きて来た響が、人の死に立ちあうのは、これが初めての体験だ。
できればこのまま、踵を返して立ち去ってしまいたい。
作品名:連載小説「六連星(むつらぼし)」 第76話~80話 作家名:落合順平