犬と探偵たち(仮)
「俺な、最近つくづくこの仕事がいやになってきたんだよ。今朝ロウワー地区の神父さんにばったり会って話をした時、自分の仕事に何か違和感を感じたんだ。でな、さっき赤毛の女の子がぐったりした様子で墓場に担がれて行くところを見て、はっと気づいたんだ。『もうこんな事に手を貸しちゃいけない。息子がもし同じことをされても許せるのか』ってね。給料はいいんだが、もう耐えられない。俺の息子も――赤毛なんだよ」
しみじみと話しながら二本目の煙草に火を点けた。看守が動くたびに鍵の束が耳障りな音をたてる。
「赤毛? もしかして私に似た女の子じゃないですか? 私の妹もここに囚われているんです」
訴えかけるような瞳でベロニカが問いかける。
「いや、顔は見なかったが――首のあたりににひどい火傷を負っていたな」
「そうですか」
それを聞くと、唇を噛みしめ彼女はそのまま黙りこんでしまった。そのベロニカを励ますように優しく手を握りながら、モカが問いかける。
「じゃあ、このまま見逃してくれるんですか?」
「ああ。ただし、一つ条件がある」
「その条件って一体なんですか?」
「言ってみれば俺は世話になったここの人たちを裏切る事になるわけだ。まあ、それはどうでもいい。だが、俺にも明日からの食い扶持が必要だ。そこで……」
看守は三人を自分の近くに集めると、小さな声で何かを耳打ちした。
「そんなの無理よ! 私たちは一刻も早くここを出たいんだから!」
納得いかないように床を踏み鳴らしながら、モカは抗議する。
「だが、おまえらには選択の余地はない。またあの牢屋に戻したっていいんだ。俺の気の変わらないうちに決めてくれ。おっと、言い忘れてたが俺の名前はアッシュだ。こう見えてもまだ若いんだぞ」
ゆっくりと三本目の煙草に火を点け、ところどころ茶色く変色した壁にもたれながらニヤリと笑った。
第十二章
(何よ、この人間たち。私の全力疾走についてこれるなんて信じられない!)
本当にこう思っていたのかは知らないが、後ろを振り返ったナタリーの眼がそう語っているように見える。
広い敷地内を縦横無尽に走り抜けるナタリーに負けないぐらいのスピードで、あの少年たちがじわじわと彼女に追いついていく。まさか、牧羊犬を追うように作られたシェットランド・シープドッグ並の体力とスピードを、この人間たちも持っているというのだろうか。
ひゅん!
綺麗に整えられた生垣を飛び越え着地した瞬間、空気を切り裂くような音と共に何かがナタリーの耳の横を通過した。間髪入れずに乾いた破裂音が続く。
「すばしっこい犬コロだ。おい、おまえら。回り込んでこっちに追い込め!」
声の主はあの教官だった。筒の先からまだ煙の出ているカービン銃でナタリーに狙いをつけている。そして皮肉なことにナタリーのいるその場所は、不幸な少年少女たちが大勢埋められているであろう墓場の中央であった。
――今やナタリーは囲まれていた。疲れからか徐々にスピードが落ち、舌を出しながら荒い息をついている。この距離なら男が持つ銃で十分に仕留められる距離だ。空からはぽつぽつと小雨が降り出し、光沢のあるナタリーの背中の毛を柔らかく濡らしていく。
「観念しろ。この屋敷に勝手に入ったヤツは、たとえ動物でも生かしてはおかん」
男は再びゆっくりと銃を持ち上げ狙いをつけた。
アオオオオオン!
助けを求めているのか、それとも最後に大好きな人間にその声を伝えたかったのか分からないが、ナタリーは今まで聞いたことの無いような声で吠えた。それは……とても悲しい声に聞こえた。
一方、屋敷内に侵入したロイたちは、既に料理が運ばれて行った厨房にぽつんと立っていた。
「おなかすいたなあ」
厨房の中に残った肉の香ばしい匂いにつられてアンジェリカがつぶやく。
「全く、こんな時に何を言っているんだ。……そらっ!」
テーブルの上にある焼き立てのパンを手に持つと、ロイは半分にちぎって彼女に投げる。だが、その眼は辺りを警戒しているのか、一瞬たりとも奥に続くドアから視線を切らない。
そのまま広い厨房を音をたてずに横切ると、ロイは奥のドアに耳を当てる。その足元でパンを凄い勢いで胃に収めるアンジェリカは、まるで腹を空かせた子犬のようだった。
「それだけ食べれるなら、身体もすぐ良くなるさ。よし、行くぞ」
ドアを開けると、長い廊下がまず目に入った。壁沿いには家主の趣味だろうか、銀色に磨き上げられた甲冑が突き当りの豪華なドアまでずらっと並んでいる。
「あのドアの向こうできっと食事中なんだろうね。しっかし薄気味悪い屋敷だなあ」
言い終わった瞬間にそのドアが開き、ワゴンと共にさっきのせむし男が出て来る。あまりにも急だったので二人には逃げ場が無かった。ロイはとっさにアンジェリカの手を掴むと、甲冑と甲冑の間に身を滑り込ませる。
「絶対に動くなよ。気配を消すんだ」
ロイは唇に手を当てると彼女を守るように背中に隠すと、一切の動きを止めた。
やがて、キイ、キイという音と共にワゴンが近づいて来る。この暗い廊下ならひょっとして気づかれずにやり過ごせるかもしれない。
しかし……。ここで何かがロイの靴に当たり、廊下の中央まで転がって行く。それはアンジェリカが震えた手で持っていた食べかけのパンのかけらだった。今身をかがめてそれを取ると、せむし男の正面に身をさらけだす事になってしまうだろう。ロイはしまったという風に眉間にしわを寄せる。
キイ、キイ、キイ。
すぐそこまでワゴンが近づいている。少女の拳大ぐらいの小さなパンのかけらだったら、彼は見過ごすかもしれない。
「何だ?」
ワゴンがぴたっと止まる。そして腕の形をした長い影がパンのかけらに伸びて、それを拾い上げた。
「おかしいな。なぜこんな所にパンが?」
しわがれた声で顔を上げて首を捻る。そのまま少しでも左を向けば、ロイたちは確実に見つかってしまうだろう。戦闘も止む無しとロイが身構えた瞬間!
アオオオオオン!
悲しみを帯びた、犬の遠吠えが屋敷の外で響き渡った。
「近いな。野犬でも屋敷に侵入したか?」
せむし男は正面に目を向けると、そそくさとワゴンに戻りさっきよりも少し早いスピードでワゴンを押しながら厨房の方に去って行った。
「ねえ、あれは絶対にナタリーの声よ! あの子に何かあったのかしら。すごく悲しい声に聞こえたわ」
「ああ。ひょっとして捕まってしまったのかもしれないな。だが……今はどうしようもない。ボクたちは急いでモカたちを探そう」
ロイの瞳に悲しみと葛藤の色が広がった。しかし経験を積んだこの探偵は、『いま、何をすべきか』を知っていた。
「牢屋を探そう。開きそうなドアを手分けして探すぞ!」
そのうちひとつだけ開くドアを見つける。幸運なことに、それは牢獄方面につながるドアだったが、もうそこにはモカたちがいないことをこの二人は知る由も無かった。
第十三章
「おまえらにも分け前をやるから言うとおり動けよ。おっと、そこを曲がった所だ。ごっそりため込んでるはずだぞ」