犬と探偵たち(仮)
「なるほどね。人間には無理かもしれないけれど、鼻の利く犬だったら可能かもしれない。でも、看守も言ってたけど、私たちにはもう時間があまり無いわよ」
心配そうな顔でベロニカは扉を見つめる。
「夕食後が勝負ね。看守も食事を摂っているのか、私たちが食べている時間はしばらくここに近づかなかったわ。とにかく扉は開いた。じゃあ、各自荷物をまとめて――って荷物なんか無いのかあ」
その言い回しが自分でも面白かったのかモカが笑う。それにつられて三人ともくすくすと声を押し殺して笑い出した。
第八章
「あの……」
夕日も沈もうとした頃、後ろからふいに声を掛けられたロイはびくっと肩を震わした。そして間髪入れず素早く身がまえる。だが、その声の主を見たとたんふうっとため息をつきながら警戒を解いた。一方、ナタリーはとっくにその人物の接近を知っていて『警戒する必要ない』と判断していたのか、地面を擦るようにのんびりと尻尾を動かしている。
「こんな時間にどうしたんだい? 女の子が出歩くにはここはすごく危険な場所だよ」
そこにはモカよりも少し年下と思われる女の子が立っていた。洋館の街灯にわずかに照らされたその顔には、さっきまで泣いていたような痕跡が見える。少女は心細そうな眼でロイを見つめたあと、しゃがんでナタリーの背中を優しく撫でた。
「私はアンジェリカと言います。実は、私の姉さんがこの中にいるんです」
「ほう。 ……いや、ちょっと待て。なぜ君はその事を知っているんだ?」
しばし沈黙が訪れる。少女は少しだけ表情を和らげながら、ナタリーの毛並みの良い背中をずっと撫で続けていた。ナタリーは目を細めて伸ばした前足にアゴを乗せくつろいでいる。
「さっきまで――そこの館にいたから」
たんたんとした口調で呟くと、ロイを見上げひきつった顔で無理やり笑顔を作る。
「何だって? では教えて欲しいんだが、もしかしてこの子を中で見かけなかったかい?」
ロイは懐からモカと写っている写真を取りだし少女に見せようと近づく。だが……。
その足がぴたっと止ると、『信じられない』という風に首を振った。
「君は……いったい何があったんだ」
その少女のうなじから後頭部にかけて火傷のような跡があった。その皮膚は何かに強く焼かれたようにひどく焼け焦げ、ただれていた。更に、彼女は“まるでさっきまで土の中にいたように全身泥だらけだった”。
「私ね、たぶん一回死んじゃったんだ。でも去年亡くなったおばあちゃんに『アンジェリカ。あんたはここに来るにはまだ早いよ』って言われた瞬間に目が覚めたの。そこは墓場みたいな所で、私の身体には半分ぐらい土が被せられてた。でもね、ずっと死んだふりをつづけてたの。もし生きているって気づかれたらまたあの実験室に連れてかれちゃうから」
実験室という単語の発音が上手くできていなかったが、ロイはすぐに理解したようだ。
「やはり……そうだったのか。だが、どうやって君はそこから逃げ出したんだい?」
「顔にまで土がパラパラとかけられた時、突然『チャド、ちょっと来てくれ』って声が聞こえて、そのあと人の気配が消えたの。その隙に起き上がって走ったわ。そして外に出ようと出口を探したしたけど、壁が家のまわりを囲んでいてどうにもならなかった」
今ごろになって恐怖が襲ってきたのか、少女の唇はわなわなと震えだした。ナタリーを撫で続けている彼女の反対の手を握りながら、ロイは優しい眼で我慢強く話を聞いている。
「大丈夫だよ、ゆっくり話してごらん」
「そ、そしたらね、壁の下にもぐらが掘ったような小さな穴を見つけたの。そこを手で掘って広げて壁のし、下をね、がんばって掘ってね」
今まで我慢していたのか泥だらけの小さな手を広げロイに抱きつく。今やアンジェリカは眼に涙をいっぱい貯めながら顔をくしゃくしゃにして号泣していた。
「そうか、よく頑張ったな。必ず君のお姉ちゃんも助け出すよ。それに今の話はすごく参考になった」
ロイはハンカチを取り出すと彼女の泥らだけの顔を丁寧に拭いてやる。それを真似しているのか分からないが、ナタリーも立ち上がると少女の小さな膝小僧をぺろぺろと舐める。
「本当? わあ、くすぐったいよ。ねえ、このわんちゃんの名前は?」
「ナタリーっていうんだよ。いい名前だろ? とりあえずここでケガの応急処置をするぞ」
ロイは傷口に付着している泥を丁寧に取り除きながら答えると、いつも携帯している救急キットを取り出した。
「うん、いい名前。ナタリーかあ、あんたいい子ねえ」
傷口の痛みに顔をしかめながらも、赤毛が似合うその少女は初めて白い歯を見せて笑った。
第九章
「おかしいな。いつまでたってもロイから連絡が来ない。仕方ない、これから現場周辺の聞き込みに行くぞ」
バンバーはしびれを切らせたように椅子から立ち上がった。
「はい、僕もモカちゃんが心配で他の仕事が手につきません。ぜひお供させて下さい」
待ってましたという風に銀縁の眼鏡をずり上げながら、警部にコートを差し出す。
「おっと、拳銃も忘れるなよ。もし人身売買グループが係わっていたとしたらめんどうなことになる」
黒いコートを羽織りながらアーロンに鋭い視線を送った。
「分かりました。こう見えても僕、射撃だけは得意なんですよ」
「知っている。いざとなったら頼むぞ」
二人はごみごみした署内を縫うように抜けると、夕暮れの街に飛び出していった。
第十章
すっかり夜の闇に包まれた洋館は不気味なぐらいに静まり返っている。ロイはアンジェリカの傷の手当てを終わらせたのち、人目を避けながら彼女の案内で壁の穴に辿り着いた。
「なるほど。ここはちょうど洋館の裏手に当たるな。おい、ちょっと待てナタリー! まだ早い」
穴に顔を突っ込んだナタリーは土を蹴って穴に潜り込もうと必死になっていた。
「あの……。私もついて行ってもいいですか? お姉ちゃんが心配なの」
アンジェリカの口調は、もうすっかりロイに心を許しているように聞こえる。
「うーん。心配なのは分かるが、傷口が化膿するとやっかいだ。それに君は我慢しているみたいだが、首の傷がかなり痛むんだろう? モカや君のお姉さんたちを助け出したらすぐに病院に行こう。とりあえずボクはこの穴を広げるから、そのおてんば娘を引っ張り出すのを手伝って欲しい」
まだ後ろ脚をジタバタしているナタリーを二人で引っ張り出す。
くぅぅぅん
不満そうな悲しい声で鳴くナタリーをなだめ、ロイはコートとジャケットを脱ぎ穴を広げる段取りに入った。
十分後、泥だらけの手をハンカチで拭きながら彼は立ち上がった。森から拾ってきた木の簡易スコップは後ろに放り出してある。
「よーし、これで通れるな。さて、これが見つかる前に庭に入るから、君は」
「私も一緒に行く! だってここに一人でいると怖いんだもん!」
間髪入れずアンジェリカが叫んだ。しばらく悩んだ後、ロイは口を開いた。
「分かった。でもボクから決して離れないでくれ」
「うん!」
だが、月の光に照らされた彼女の笑顔の裏側には、喜びよりも何かに対する憎しみが潜んでいることにロイはこの時まだ気づいていなかった。