犬と探偵たち(仮)
ロイはバッグの中からハンカチを取り出すと、ナタリーの鼻に近づけた。彼女はそれをくんくんと嗅ぐと、ぴんっと尻尾を立て今にも走り出しそうな気配を見せる。
「分かった。ところで君はブラッドハウンドという犬を知っているか?」
「いえ、知りませんが何か特殊な犬なんですか?」
「そう、この犬は別名『魔法の嗅覚』とも言われている。まあ訓練も受けているんだが、十キロ先の一グラムの人間の汗を嗅ぎ分けることができるそうだ。犯人が馬車などで逃げても、半径五キロ圏内程度なら完全に見つけることができるらしい。果たして、そこのナタリー嬢はどこまでやれるかな? とにかく、何か分かったら人を使って連絡してくれ」
人差し指を突きだし左右に振って白い歯を見せると、警部はくるりと背中を見せ小走りに署の方向に消えて行った。
「おまえならやれるよな。モカのこと大好きだろ? よし! 追いかけろ」
尻を叩かれたようにナタリーは立ち上がると、追跡する犬特有のポーズで進んで行く。空中に漂う愛しいモカの匂いを探しながら、ロイを従えてしっかりした足取りで歩いている。
一時間ほど追跡すると、ロウワー地区の奥に建つ古びた洋館の前でナタリーは立ち止まった。その洋館を囲むように、来るものを拒むような高い塀がぐるっと張り巡らされている。むずむずした様子で吠えようとするナタリーを手で制し、ロイはその洋館の周りの捜索を始めた。
「どうやらここにいるようだな。ちょっと待て、あそこに人がいるぞ」
後ろを振り返ると、木の影にもたれるようにして休んでいる浮浪者風の老人の姿があった。昼間なのに真っ赤な顔をしている。酒でも飲んでいるのだろうか。
「ちょっとお尋ねしますが、あの屋敷には人が住んでいるのですか?」
洋館の方が気になるのか、ナタリーの目はそこから離れない。
「うあ? 誰だおまえは。屋敷? 一ペニーくれたら教えてやらんこともない」
酒の匂いと浮浪者特有の匂いが混ざった空気がロイの鼻をつく。ロイはポケットからコインを取り出すと、浮浪者に渡す。
「ありがとよ。そうそうあの屋敷はな、『幽霊屋敷』って呼ばれてるんだ。中で何をしているのか分からないが、夜中に子供の泣き声が聞こえることがあるんだとよ。しかもあの中から出てくる馬車から、人間の足がぴょこんって飛び出ているのを見たヤツもいる」
いかにも秘密の話というように顔を近づけて来るが、ロイはたまらず顔を背けた。
「だがな、あそこは由緒ある地元の名士の家なんだ。何があっても誰も文句は言わねえ。だからあんたたちもあの家に関わらない方がいいぞ」
「ありがとうございました。気をつけます」
ロイは踵を返すとその男から遠ざかる。そして見上げるナタリーの頭を撫でながら呟く。
「ってことはだ、ナタリー。あそこに侵入するには少々手こずる事になりそうだぞ。おまえも一緒にやるか?」
わんっ!
あたかもその言葉が分かったように、ナタリーは短く、そして鋭く吠えた。
第五章
ここはミドル地区を管轄するバンバー警部が勤務する警察署だ。黒いコートをハンガーにかける間も惜しむように部下のアーロンの姿を探す。
「やあ、アーロンくん。いま手は空いている……ようにはとても見えんが、実は個人的な友人が非常に困っている。これは集団失踪事件にも関与している案件のようだし、ぜひこれから私に協力してくれないか?」
銀縁の眼鏡をかけた若者は、腕に抱えていた山のような資料の横から顔を覗かせると少しだけ迷惑そうな顔を作る。
「もちろんかまいませんよ。これを片付けたら、すぐに協力させて頂きます」
「いや、いま、すぐに、だ」
「は、はい! 分かりました」
さすがにバンバー警部の顔色を読んだのか、資料を近くのデスクの上にそっと置くとすばやく敬礼のポーズをとる。天然パーマのこの痩せた若者はブルーの眼を持ち、その頭の回転の速さから、彼と同期の者たちよりも警部から特に目をかけられていた。
「先ほど、ご友人とおっしゃってましたが?」
「ああ、あのロイだ。彼の助手の子が今朝ロウワー地区で行方不明になった。現場には彼女のものと思われるバッグが落ちていて、それを元にロイくんが犬とともに現在追跡している」
「助手の子って……あの、モカちゃんですか!? 前の事件の時に少し彼女と話したんですが、可愛くて、物凄く――あの、僕好みで」
最後の方は消え入りそうな声で、眼鏡をずり上げながら心配そうな顔を作る。心なしか、その顔に少し赤みがさしているようにも見える。
「ああ、その子だ。どうした君、顔が赤いぞ。とにかく、行き先が分かったら連絡が来るはずだから、それまで過去のロウワー地区の犯罪者リストをもう一度検討してくれたまえ」
「分かりました! ところで、その犬とは?」
「ナタリーって名前の利口そうなシェルティだよ。預かっているだけらしいが、犬好きの私の眼が確かなら、あの犬はきっと彼女を見つけ出してくれるだろう。しかし、今夜はとんだ年越しになりそうだな」
ぎしっと音を立て使い込まれた椅子に座ると、今朝いれて机の上に置きっぱなしの残った珈琲を一口すすり溜息をついた。
第六章
その洋館の中では、ロイやバンバーたちが思っているよりも恐ろしい事が行われていた。
「おっと、いけない。電流が強すぎたかな。見ろ、手足が面白いように跳ねているぞ」
くっくっと残酷な笑みを浮かべているこの男は、この洋館の主、ジャスティスと呼ばれる男だった。切れ長の目を細めながら、手術台でバタバタと痙攣を始めている子供を愉快そうに見下ろしている。その近くに控える白衣を着たせむし男、彼はチャドという名でジャスティスの忠実なしもべである。
「旦那様、これで今日は二人も無駄に死なせました。もっとこう慎重に……」
これを聞いたジャスティスの顔がみるみる赤くなっていく。恐る恐る進言するチャドを見下ろしたその瞳は傲慢な怒りで一瞬にして燃え上がったように見えた。きっとこの男に意見する人間などこれまでただの一人もいなかったのだろう。
「うるさい! この私に指図するな!だいたい実験体なんていくらでも手に入るじゃないか。それに、あいつはこれくらいの電流ではビクともしなかったぞ」
「しかし……あの怪物、いやモンクは特別な子供です。ほかの青っ白いガキどもではとても耐えられません」
モンクという言葉を聞いた瞬間、さっきまでの怒りを忘れたように急に機嫌が良くなる。
「分かったよ。どなって悪かった。こいつを埋め終わったら次の子供を連れて来てくれ」
口から泡を吹き、まだ電流により手足をぴくぴくさせている子供の死体を抱え上げると、チャドは部屋を出て行った。
「おかしいなあ。とりあえず首に装着するこの機械の改良が先かな」
この恐ろしい実験室でひとり首を捻る。
そう、さらってきた子供の運命は――男の子は痛みを感じない、何でも言う事を聞く戦士に。そして女の子は罪の意識を感じない売春婦にして外国に売り飛ばす。
それが、この館の目的だった。いわゆるロボトミー手術の先駆けとも言える悪魔の手術がまさに日々このさびれた洋館で行われてようとは、人々は想像だにしていなかっただろう。