犬と探偵たち(仮)
我慢の限界がやってきたようだった。イライラした様子で部屋の中を歩き回るロイを見つめるナタリーは、少し悲しそうな眼をして丸まっている。
「ナタリー、モカを迎えに行くぞ!」
その声を聞いたとたん、弾かれたように立ち上がると同時に尻尾は振りながら玄関のドアの前に座る。シェルティーの愛称で知られるこの牧羊犬の眼はどこか知的に光っていた。
「やあ、ちょうどいい。君のところに来たところだったんだ」
ロイがナタリーを従えて玄関を出ると、まるでそこで待ち合わせたかのように旧友であるバンバー刑事が足早に近寄って来るところだった。
「今日はどうしたんですか? 事務所まで直接来るなんて珍しいですね」
「ああ、ちょっとまた君の知恵を借りようと思ってな。おや、犬を飼ったのかい? ずいぶん利口そうな顔をしているなあ」
ナタリーの目線まで腰を落とすと、警部は愛しそうに頭を撫でる。きっと彼もかなりの犬好きなのだろう。
「いえ、友人から預かっているんです。名前はナタリー、利口なお姫様ですよ。ところで何かあったんですか?」
警部は名残惜しそうに立ち上がると、ロイに一歩近寄り真面目な顔を作る。
「歩きながら話そう。実は最近な、少年や少女が突然行方不明になるという事件が起きているんだ。私の署にも連日のように家族たちが詰めかけてきてね。一応署員を割いて捜索に当たらせてはいるんだが……。いかんせん手が足りんのだよ」
「少年少女ですって? ただの家出とは違うんですよね」
顎に手を当て薄く生えた髭をなぞりながら聞き返す。
「そう、ただの家出ならわざわざ私がここまで来たりしない。それに居なくなった子たちは家庭に不満がある子ばかりじゃないんだ。だいいち――数があまりにも多すぎる」
少し出てきた腹を気にしているのか、警部はズボンのベルトをきゅっと締め直す。
「なるほど。つまり、大量失踪事件というわけですね。ところで警部、それはどの地区が一番多いんですか?」
肩を並べて歩くとロイの方が頭一つ高いので、少し見下ろす形になる。
「ロウワー地区だよ」
ロイはやはりという顔を作ると、モカが今朝からいなくなったいきさつを手短に説明する。
「いやな予感がするな。これから急いで神父様の所を訪ねよう。私も同行するよ。彼女が無事だといいが」
「ありがとうございます。ナタリー、急ぐぞ!」
少し早足になった二人と一匹は、やがてロウワー地区に足を踏み入れた。そこはミドル地区と違い、貧困と犯罪の匂いが遠慮なく二人の鼻を刺激する街であった。
第三章
モカが目を覚ますと、そこは暗くかび臭い部屋だった。光は窓にはまった頑丈な鉄格子からわずかに差し込むだけで、部屋の中には暖かさを連想させるものはそれしか見つからない。
「グオオオオオ!」
突然の獣のような叫び声が遠くから聞こえ、ベッドからバネ人形のようにモカは身を起こす。お世辞にも清潔とは言えないシーツをはぎ取ると目を擦りながら改めて部屋を見廻した。
「ここは……どこ。それに今の叫び声って」
「シーーーー! 黙って。看守が来るわ」
隣のベッドに腰掛けている同じくらいの年ごろの娘が鋭く言葉を遮る。やがてコツコツと足音が近づいて来ると、赤錆色のドアの小さなフタを開け、看守と思われる男が口を開く。
「よう、新入り。やっと目が覚めたのかい? しかしおまえは少し他の子供たちと毛色が違うな。ひょっとしてミドル地区の人間か? ――まあいい。どっちにしろ行き先は同じだ」
少し語尾が笑っているように聞こえた。そしてパタンとその小さなフタは閉まり、足音が遠のいていく。
「あなたはミドル地区の子なのね。どうりで服がまともだと思ったわ。私はベロニカ、よろしくね。そこで泣きべそをかいている子はレイチェルよ」
部屋には簡素なベッドが三つある。一番奥のベッドで膝を抱えている子が、涙を手の甲で拭いながらこくんと頭を下げた。そしてまた黙り込むと、ベッドに横になってしまった。
「よろしくね、私はモカ。ロウワー地区で男たちに声を掛けられてから記憶が無いの。ひょっとしてあなたたちも?」
「ええ、私も馬車で来た男たちに捕まったの。さっき聞こえた叫び声……。あれは男の子たちに何かの実験をされている時の叫び声らしいわ。昨日看守のおじさんがそっと教えてくれたの。ここにさらわれてきた子供たちは、何かの目的に使われて一生おうちに帰れないそうよ」
目にかかった赤い前髪をかきあげながら、ベロニカはとても悲しい顔をする。
「実験!? じゃあ、私たちもいつかは」
「そう、隣の房の子供たちは昨日連れて行かれて戻って来ないわ。もう――時間の問題よね」
言い終わらないうちにモカは素早くベッドから離れ、部屋の隅々まで念入りに点検する。それはまるで、『脱出する方法』を探しているようだった。彼女のポジティブな思考が次に何をすべきなのか、いま何ができるのかを決めているようだった。
「ふう、ダメね。出口は窓とそこの憎たらしい頑丈なドアだけ。ねえちょっと、そこでまだ泣いているあなた! めそめそしていないで、一緒に逃げる方法を考えましょう。このままだと、私たちは実験動物にされちゃうのよ」
その言葉にレイチェルは身を起こすと、目をぱちくりさせた。この新入りのバイタリティに押されている感じだ。やがてか細い声でモカに問いかける。
「でも……。どうやって?」
そのうるうるした視線を受けた瞬間、モカに少し戸惑いの色が走る。
「それを、これから考えるのよ」
時計も無いこの部屋では、現在の時間も分からないだろう。
「あ、そうだ。私のバッグはどこにいっちゃったんだろ」
自分のベッドの周りを忙しく探し回るモカを横目で見ながら、顔を見合わせる少女たちの表情は、この新入りに期待と不安を同時に抱いているように見えた。
第四章
「こら、まてナタリー!」
ロウワー地区に差し掛かって三ブロックほど歩いたところでナタリーが突然走り出した。
ボロボロのアパートの角を直角に曲がり、人気の少ない寂しい通りに入って行く。
「一体どうしたんだろう。おっと、警部。あいつあんなところでこっちを見ながらのん気に尻尾を振ってますよ」
息を切らせた二人がナタリーに近づいていくと……そこには、汚い通りに花が一輪咲くように赤いバッグが転がっていた。そのそばで尻尾を振るナタリーの顔はどこか得意そうだ。
「これは、モカが今朝出かける時に持って行ったバッグに非常に似ていますね」
ロイは拾い上げると、中身を確認する。
「鏡と、ハンカチ、それにチーズと。チーズだって? うーん、間違いありません。これはモカの物です。あいつ、おやつ用にチーズのかけらをバッグに入れるクセがあるんです」
「と、いう事は――。これは何かに巻き込まれた可能性が高いな」
眉間に皺を寄せながらバンバー警部はロイと眼を合わせる。
「ええ。一刻の猶予も無いですね。申し訳ないんですが、警部はいったん署に戻っていただいて、少し人手を集めていただけませんか? これはもしかして集団失踪事件が絡んでる可能性も否定できませんから」