犬と探偵たち(仮)
プロローグ
「先生! そ、その犬は!?」
今入ったばかりの事務所のドアを足で押さえ、胸に抱えたカゴにパンやチーズを詰め込んだまま、モカが叫んだ。そして待ちきれないようにそれをテーブルに乱暴に置くと、椅子の脇で尻尾を振っている愛嬌のある中型犬に小走りに近づいていく。
「ああ、旅行に行く友人から半月ほど預かったんだ。ちょ、こらダメだって! 犬にチーズなんかやるんじゃない」
いつの間にかモカは、チーズのかたまりをその茶色のシェットランド・シープドッグに与えようとしていた。
「かわいいですね! 先生、かわいいですね!」
目をうるうるさせながら、つやのある茶色の犬を抱きしめる彼女は相当な犬好きのようだ。その犬よりも少し薄い茶色の髪の毛を後ろでまとめ、少し頬を赤く染めながら頬ずりする姿は、まだあどけない少女そのものだった。
「そう言えば、この犬の名前はなんて言うんですか?」
「ナタリーだよ。もしかしたら、おまえより賢いかもしれないぞ」
無邪気にはしゃぐモカを青灰色の眼でじっと見つめているこの男は、この探偵事務所の主であるロイ・ジャービスだ。ブラウスのボタンを自然に三つほど外した襟の隙間からは、少し色気のある鎖骨が見え隠れしている。古びた椅子に座り、優雅に組んだ足の長さから、立ちあがればかなりの長身だと伺える。
「じゃあ女の子ですね。うふふ、今日からしばらくわたしがお姉さんですよう」
子供の頃、孤児院で育ったモカにとって『お姉ちゃん』というポジションはあこがれだったのかもしれない。
いつものように「先生、またそんなこと言ってえ!」的な反撃がないことに肩すかしをくらったのか、軽く肩を竦めるとまた手元の資料に目を落とす。
「さっそくこの子を散歩させてきますね。ナタリー、ついておいで!」
そう言うが早いか跳ね回るスタイリッシュな犬を従え、スカートを翻してドアから飛び出して行く。
「お、おーい。夕食の支度は? ってもういないのか。ったくどっちが犬か分からないな」
あきれたようにまた肩を竦めたが、その顔には優しい笑顔がくっきりと浮かんでいた。
だが……。ロイはこの時、明日彼女に起こる悲しい出来事を知る由も無かった。
第一章
その日はいつもと変わらない朝のように見えた。表通りから馬車の騒々しい音でモカの瞼がぴくりと動く。
「うーん、もう朝かあ。あれ? ナタリーがいないわ」
昨夜隣で一緒に寝たはずのナタリーを探しきょろきょろしながら起きあがった。
「おはよう、モカ」
遅くまで起きていたのか、少し不機嫌な顔をしたロイがコーヒーを片手に窓の外を見つめながら声を掛ける。
「あ、先生おはようございます! あのナタリーを見ま」
言い終わらないうちに彼女の足元にナタリーが体当たりをしてきた。
「ふおう! あんたどこにいたのよ。まあいいわ。先生、朝ごはん作るから少し待ってて下さいね」
そう言い残すとモカは小さなキッチンに消えて行った。その後ろを尻尾を高くあげたナタリーがトコトコと着いて行く。
「モカ、今日は神父様の所に届け物があるんだ。悪いが、朝食を食べたら行ってきてくれないか? ボクはこの書類を今日中に片づけなければならないから」
「任せて下さい。ところで、ナタリーって何が主食なんでしょうねえ。とりあえず昨夜の残り物をあげてみますね」
嬉しそうな顔をキッチンからぴょこりと覗かせる。彼女の目には、ナタリーは本当の妹として映っているのかもしれない。
パンとチーズ、そして少しのアンチョビーをたいらげると、モカは支度を始めた。
「教会はロウワー地区にあるから、気を抜かないで行くんだぞ。ミカエル神父によろしく言っておいてくれ」
わんっ!
「いや、君じゃないよナタリー。残念だが、君はボクと留守番だ。下手について行ってあの地区で迷子になったりしたら、すぐに犬鍋にされちゃうからな」
ロイは長い指先で封筒をつまみ上げると、モカの小さな手に乗せる。
「分かりました。お昼には戻るようにします。先生はナタリーのお世話をよろしくお願いします」
名残惜しそうな眼をちらっとナタリーに投げかけると、モカは赤いバッグを肩に掛けながら元気に出て行った。
数時間後、足元で寝ているナタリーが「くううん」と一鳴きした。書類に夢中になっていたロイは懐中時計を取り出すと時間を確かめる。
「おお、もう一時を過ぎているじゃないか。しかしあいつ遅いな。もうとっくに帰って来てもいいはずなんだが……」
訝しげな顔をして立ち上がると、首を捻る。それを見ていたナタリーも同じように首を傾げた。そして昼ごはんの支度をしにキッチンに向かったが、彼の眼は何か違和感を感じた時特有の光を放ち始めていた。
ロウワー地区。二時間前。
「それでは神父さま、ごきげんよう」
モカは胸の前で十字を切ると会釈をする。
「わざわざ届けてくれて申し訳なかったね。ロイくんにもよろしくと伝えて下さい。お嬢さんにも神のご加護がありますように」
ミカエル神父に刻まれた目じりの皺のおかげか、それが彼をとても優し気に見せている。
「はい! では失礼します」
スカートを翻すとモカは走り出した。危険な地区を避けて遠回りしてきたため、少し時間がかかりすぎたようだ。
「お嬢さん、少しお時間よろしいですか?」
五分ほど走り、疲れたのか立ち止まった時に後ろからふいに声を掛けられた。急いでいたためか、人気の少ない通りに彼女は入ってしまっていた。ひとりは笑顔の爽やかな身なりのいい紳士、もうひとりはそれに仕える奴隷だろうか、せむしの目つきの悪い男だ。その後ろには人目を避けるように馬車が停めてある。
「いま急いでるので、申し訳ないですけど……」
「なあに、お時間はとらせません。ちょっとこの写真を見て下さい。私の娘が二日前に突然いなくなってしまったんです。ミドル地区を探し尽くし、このロウワー地区まで足を延ばしてきたんですが」
人探しと聞いて、探偵の助手であるモカが興味を示さないはずがなかった。
「あら、可愛い娘さんですね。もし家出だとしたら……何か原因みたいものがあるは」
この言葉がこの場所で残した最後の言葉だった。
なぜなら――写真を覗き込むモカの後ろにそっと回り込んだせむし男が、素早く彼女の口をふさいだのだ。その手に持ったハンカチには何か強烈な薬品が染み込ませてあったのだろうか、モカの目がくるりと瞼に隠れるのに三秒とかからかった。
「旦那様、思いがけずいい材料が手に入りましたね」
爬虫類の様な眼をしたこの男は、小さな身体に似合わず軽々とモカを担ぎ上げると、馬車に乱暴に彼女を放り込んだ。
「ああ。年齢も手ごろだし活きもいい。教会からつけて来て正解だったな」
デカい宝石のはまった指輪を口元に持っていきくすくす笑うその姿は、さきほどの紳士の表情からは程遠かった。
そう、彼らはロウワー地区を中心に『子供を狩る』悪党だったのだ。彼らに捕まった少年少女の行く末はこの時、彼ら以外は――誰も知らなかった。
ただ、彼らが知らない事もひとつだけあった。それは……走り去る馬車から音も無く赤いものが落ちて転がっていったことだった。
第二章
「やはり……遅すぎる」
「先生! そ、その犬は!?」
今入ったばかりの事務所のドアを足で押さえ、胸に抱えたカゴにパンやチーズを詰め込んだまま、モカが叫んだ。そして待ちきれないようにそれをテーブルに乱暴に置くと、椅子の脇で尻尾を振っている愛嬌のある中型犬に小走りに近づいていく。
「ああ、旅行に行く友人から半月ほど預かったんだ。ちょ、こらダメだって! 犬にチーズなんかやるんじゃない」
いつの間にかモカは、チーズのかたまりをその茶色のシェットランド・シープドッグに与えようとしていた。
「かわいいですね! 先生、かわいいですね!」
目をうるうるさせながら、つやのある茶色の犬を抱きしめる彼女は相当な犬好きのようだ。その犬よりも少し薄い茶色の髪の毛を後ろでまとめ、少し頬を赤く染めながら頬ずりする姿は、まだあどけない少女そのものだった。
「そう言えば、この犬の名前はなんて言うんですか?」
「ナタリーだよ。もしかしたら、おまえより賢いかもしれないぞ」
無邪気にはしゃぐモカを青灰色の眼でじっと見つめているこの男は、この探偵事務所の主であるロイ・ジャービスだ。ブラウスのボタンを自然に三つほど外した襟の隙間からは、少し色気のある鎖骨が見え隠れしている。古びた椅子に座り、優雅に組んだ足の長さから、立ちあがればかなりの長身だと伺える。
「じゃあ女の子ですね。うふふ、今日からしばらくわたしがお姉さんですよう」
子供の頃、孤児院で育ったモカにとって『お姉ちゃん』というポジションはあこがれだったのかもしれない。
いつものように「先生、またそんなこと言ってえ!」的な反撃がないことに肩すかしをくらったのか、軽く肩を竦めるとまた手元の資料に目を落とす。
「さっそくこの子を散歩させてきますね。ナタリー、ついておいで!」
そう言うが早いか跳ね回るスタイリッシュな犬を従え、スカートを翻してドアから飛び出して行く。
「お、おーい。夕食の支度は? ってもういないのか。ったくどっちが犬か分からないな」
あきれたようにまた肩を竦めたが、その顔には優しい笑顔がくっきりと浮かんでいた。
だが……。ロイはこの時、明日彼女に起こる悲しい出来事を知る由も無かった。
第一章
その日はいつもと変わらない朝のように見えた。表通りから馬車の騒々しい音でモカの瞼がぴくりと動く。
「うーん、もう朝かあ。あれ? ナタリーがいないわ」
昨夜隣で一緒に寝たはずのナタリーを探しきょろきょろしながら起きあがった。
「おはよう、モカ」
遅くまで起きていたのか、少し不機嫌な顔をしたロイがコーヒーを片手に窓の外を見つめながら声を掛ける。
「あ、先生おはようございます! あのナタリーを見ま」
言い終わらないうちに彼女の足元にナタリーが体当たりをしてきた。
「ふおう! あんたどこにいたのよ。まあいいわ。先生、朝ごはん作るから少し待ってて下さいね」
そう言い残すとモカは小さなキッチンに消えて行った。その後ろを尻尾を高くあげたナタリーがトコトコと着いて行く。
「モカ、今日は神父様の所に届け物があるんだ。悪いが、朝食を食べたら行ってきてくれないか? ボクはこの書類を今日中に片づけなければならないから」
「任せて下さい。ところで、ナタリーって何が主食なんでしょうねえ。とりあえず昨夜の残り物をあげてみますね」
嬉しそうな顔をキッチンからぴょこりと覗かせる。彼女の目には、ナタリーは本当の妹として映っているのかもしれない。
パンとチーズ、そして少しのアンチョビーをたいらげると、モカは支度を始めた。
「教会はロウワー地区にあるから、気を抜かないで行くんだぞ。ミカエル神父によろしく言っておいてくれ」
わんっ!
「いや、君じゃないよナタリー。残念だが、君はボクと留守番だ。下手について行ってあの地区で迷子になったりしたら、すぐに犬鍋にされちゃうからな」
ロイは長い指先で封筒をつまみ上げると、モカの小さな手に乗せる。
「分かりました。お昼には戻るようにします。先生はナタリーのお世話をよろしくお願いします」
名残惜しそうな眼をちらっとナタリーに投げかけると、モカは赤いバッグを肩に掛けながら元気に出て行った。
数時間後、足元で寝ているナタリーが「くううん」と一鳴きした。書類に夢中になっていたロイは懐中時計を取り出すと時間を確かめる。
「おお、もう一時を過ぎているじゃないか。しかしあいつ遅いな。もうとっくに帰って来てもいいはずなんだが……」
訝しげな顔をして立ち上がると、首を捻る。それを見ていたナタリーも同じように首を傾げた。そして昼ごはんの支度をしにキッチンに向かったが、彼の眼は何か違和感を感じた時特有の光を放ち始めていた。
ロウワー地区。二時間前。
「それでは神父さま、ごきげんよう」
モカは胸の前で十字を切ると会釈をする。
「わざわざ届けてくれて申し訳なかったね。ロイくんにもよろしくと伝えて下さい。お嬢さんにも神のご加護がありますように」
ミカエル神父に刻まれた目じりの皺のおかげか、それが彼をとても優し気に見せている。
「はい! では失礼します」
スカートを翻すとモカは走り出した。危険な地区を避けて遠回りしてきたため、少し時間がかかりすぎたようだ。
「お嬢さん、少しお時間よろしいですか?」
五分ほど走り、疲れたのか立ち止まった時に後ろからふいに声を掛けられた。急いでいたためか、人気の少ない通りに彼女は入ってしまっていた。ひとりは笑顔の爽やかな身なりのいい紳士、もうひとりはそれに仕える奴隷だろうか、せむしの目つきの悪い男だ。その後ろには人目を避けるように馬車が停めてある。
「いま急いでるので、申し訳ないですけど……」
「なあに、お時間はとらせません。ちょっとこの写真を見て下さい。私の娘が二日前に突然いなくなってしまったんです。ミドル地区を探し尽くし、このロウワー地区まで足を延ばしてきたんですが」
人探しと聞いて、探偵の助手であるモカが興味を示さないはずがなかった。
「あら、可愛い娘さんですね。もし家出だとしたら……何か原因みたいものがあるは」
この言葉がこの場所で残した最後の言葉だった。
なぜなら――写真を覗き込むモカの後ろにそっと回り込んだせむし男が、素早く彼女の口をふさいだのだ。その手に持ったハンカチには何か強烈な薬品が染み込ませてあったのだろうか、モカの目がくるりと瞼に隠れるのに三秒とかからかった。
「旦那様、思いがけずいい材料が手に入りましたね」
爬虫類の様な眼をしたこの男は、小さな身体に似合わず軽々とモカを担ぎ上げると、馬車に乱暴に彼女を放り込んだ。
「ああ。年齢も手ごろだし活きもいい。教会からつけて来て正解だったな」
デカい宝石のはまった指輪を口元に持っていきくすくす笑うその姿は、さきほどの紳士の表情からは程遠かった。
そう、彼らはロウワー地区を中心に『子供を狩る』悪党だったのだ。彼らに捕まった少年少女の行く末はこの時、彼ら以外は――誰も知らなかった。
ただ、彼らが知らない事もひとつだけあった。それは……走り去る馬車から音も無く赤いものが落ちて転がっていったことだった。
第二章
「やはり……遅すぎる」