犬と探偵たち(仮)
首に巻きつけた宝石と共に、【私たちはいま、巨大な悪を倒すために命がけで戦っています。この手紙を読んだ方はどうか『ビッグベル』をすぐに鳴らして下さい。あなたの行動に私たち五人の命がかかっています】と書かれた手紙を括り付けナタリーはひた走る。
ビッグベルとは、この地域で最も大きな教会の鐘だった。毎日正午だけにその大きな音を街中に響かせる。もし手紙の通りにこんな夜に鐘が鳴る事があれば、この街始まって以来の前代未聞の大事件になるだろうということは想像に難くなかった。
果たして、ビッグベルは鳴るのか。運命の手紙と宝石を背負った、一匹の犬の挑戦が今始まろうとしていた。
第十九章
ナタリーもまた、この屋敷の見取り図を暗記しているように屋内を疾走する。慌てて駆け付けたのか、屋敷『内』のドアはほとんど開きっぱなしだったことが彼女に幸いした。何とか少年たちを振り切り、やがて小さな窓から身をよじるようにして庭に飛び出した。この窓は、とても人間が通る事ができないような大きさなのできっと見過ごされていたに違いない。冷たい雨は小降りになったが、空は曇り視界は悪い。
だが、少しツイてない事もあった。屋敷の外壁をくぐった時にはバンバー警部たちはちょうど屋敷の反対側にいて、ナタリーの姿は見えなかったようだ。自慢の鼻を持ってしてもこの雨と風向きのせいで警部たちの存在に気づけなかったナタリーは、一目散に森の小道を疾走する。
いつもの彼女なら一息に走り抜ける距離にも関わらず、時々立ち止まり苦しそうにうなる時間があった。それはその肩の傷口から雨に混ざって薄い血が流れているせいであろうか。きっと少年たちから受けた傷が今も激しく痛むのだろう。
だが――走った。身震いし、毛を逆立てながら大好きなモカたちのためにひたすら走った。何度も、何度も倒れそうになりながら。
「お母さん見て。あの犬、血だらけだよ。あ! こっちに来た」
ロウワー地区に入った時だった。母親に手を引かれた子供がナタリーを指差した。息を切らせながらよろよろと近づいて来る犬を、その親子は少し警戒しているようだ。だが賢そうな眼の光に気を許したのか、親子の方からもナタリーに近づいていく。その犬はぼろぼろになってもまだ、強い眼の光だけは失っていなかったのだ。
「この子は野良犬じゃないわねえ。首輪がついてるわ。それに……これは?」
泥や血にまみれた首輪に隠れるようにして何か光るものを見つけた。
「ほ、宝石じゃないこれ! こんな大きな宝石をなんでこの子がつけてるのかしら」
口をOの字に開いたままそれをナタリーの首から外す。
「お母さん、何か手紙みたいのが結んであるよ」
少年はがそれを丁寧に外す。少し泥水が滲みていたが、読めない程では無かった。
「ごめんね、お母さんは学が無いから字が読めないの。神父さんに読んでもらいましょう。この時間なら自宅にいるはずだから。さ、あなたもケガしてるようだから治療が必要ね。一緒にいらっしゃい」
優しくナタリーに声を掛けた。それまでの疲れが一気に出たのか座り込んでしまっていたナタリーは、その言葉を聞くとふらふらと立ち上がった。
「大丈夫? 歩ける?」
犬の脇を歩きながら時々声を掛けている少年を横目に、母親は手に持ったペンダントを珍しそうにしばらく撫でていたが、それを首にかけるとにっこりと微笑んだ。
神父の家は二ブロック離れた場所にあった。良く整えられた庭を通り、母親が遠慮がちにドアを叩く。
「こんばんは。神父さま、いらっしゃいますか?」
やがて足音と共に、ミカエル神父がドアを開けた。彼は数時間前にモカに会っている。
「おや、クレアさん。どうしました? 息子さんも連れて」
少し驚いた顔をしていたが、すぐに優しい目に変わる。
「実は、さっきそこの犬が近づいて来たのです。驚いた事に、こんなものを首に掛けてました」
クレアは自分の首に掛かったペンダントを外すと、神父に手渡した。
「ふむ、これは尋常じゃない大きさの宝石ですね。きっとかなり価値のあるものでしょう」
家から漏れる明かりにかざすと、片方の眉を上げる。
「それだけじゃないんです。これも一緒に首輪に結んでありました」
雨でしなしなになった手紙を慎重に神父に渡す。神父は長い時間をかけてその手紙を何度も読んだ。
「あの……その手紙には何と?」
「いま、命がけで悪者と戦っている者がいるようです。文体から切羽詰っている様子が伺える。どうやら『ビッグベル』を鳴らすことが彼らの手助けになるようですね」
「え、『ビッグベル』ですって? もしこんな時間に鳴らしたら、街がパニックになるかもしれないわね。それに伝統を重んじる管理組合が首を縦に振らないでしょう」
神父はしばらく考え込んだが、やがて口を開いた。
「そうかもしれないですね。しかし、いま命がけで悪者と戦っている人たちがいる。私は神の子として、これを見過ごす訳にはいきません。そしてこの犬の勇敢な行為には、五人の命がかかっているとも書かれています。ただ……この宝石の件には何も触れられてませんが、察するにこの戦いに何か関係があるのでしょう」
「では、神父さま」
「ええ、これから『ビッグベル』に向かいます。あなたたちも一緒に来ますか?」
「もちろんです。でも、この犬はケガをしているようですからここに置いて……」
わんっ!
その時ナタリーが短く吠えた。さながらその顔は、「まだまだ私は歩けるわ!」と言っているようだった。
「分かったわ。じゃあ一緒に行きましょうね」
クレアは屈みこむと、ナタリーの頭を優しく撫でた。
「では支度をしてきます。あなた方はこの布で犬の身体を拭いてあげて下さい」
そう言い残すと神父は家の中に消えた。数分後、黒い神父服に着替えたミカエル神父が出て来る。その首には大きな十字架がゆっくりと揺れていた。
「では、行きましょう。心配することはありません。きっと神が私たちを導いてくれるでしょう」
そのまま胸の前で十字を切ると、神父たちは『ビッグベル』に向けて早足で歩き出した。
「無理言わないで下さい! いくら神父様の頼みでも、できないものはできないんです!」
運の良い事に『ビッグベル』の管理人はまだ塔の事務所にいた。ミカエル神父はそれでも粘り強く説得する。
「五人の人間の命がかかっているんです。ただ音を鳴らすだけでその人たちが助かるのなら、やってみる価値はあるんじゃないでしょうか」
熱意のこもった眼差しで初老の管理人の男性を見つめる。
「ですが……。はい、分かりました。神父さんには負けましたよ。じゃあ少し待っていて下さい。他の管理人にも事情を話してみますから。彼もあなたのミサに必ず出席している人なのでたぶん大丈夫だと思います」
男性はコートを羽織ると、管理事務所を出て行った。
「神父さま、犬が!」
クレアの声に神父が振り返ると、ナタリーが荒い息をつきながら倒れていた。
「ここまで来るのに、体力を使い切ってしまったのでしょう。だが、おまえの勇気は無駄にはしないよ。クレアさん、これをこの子にかけておやりなさい。そうだ、この近くに医者がいるはずです。坊や、ひとっ走りして彼を呼んできてくれないだろうか?」