小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
みやこたまち
みやこたまち
novelistID. 50004
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

そののちのこと(口頭試問)

INDEX|5ページ/6ページ|

次のページ前のページ
 

いつつめ(おしまい)



 「知識は交流を生まないのだろう」
 「私には個性がなかった。だから、代わりに知識を身に付けるしかなかった」
 「両親は」
 「両親は私を育ててくれた」
 「君は両親が好きかい?」
 女はうなだれて目を閉じる。男は女の背後に立ち、風になぶられる髪に鋏を入れようとする。目の前を流れる川からカジカの声が響いている。涼やかな風になぶられる女の髪は遠くで闇に溶けている。
 「両親は環境だった。その中で育つ私は適応するための努力をするだけだった。矯正された嗜好は私をすべらかな球形として成熟させた。両親の理想は消極的な完全主義でしかないと、そのころの私にはわからなかった」
 「両親を愛していた?」
 「私はそれを密かに捨て去るために、彼女達の望みを全て叶えなければならなかった」
 「父親のことを話してくれないか」
 男は女の髪を肩のあたりでまっすぐに揃えた。ギザリギザリと鋏が進むと、周囲の闇が薄くなった。時計回りの鋏が最後の一束を切り落とすと、かまどうまの声が止んだ。薄暮の空には、一番星が輝いている。燃えるような空を映して、女の瞳は血のように赤い。川向こうから吹き付ける生暖かい風がゴウという音を響かせ、男と女に向かってくる。大気に静止した陽炎とでもいうべき風紋が、周囲を書割のように見せている。ジグザグの風景の隙間から、再びヒグラシの声が聞こえてくる。
 「父の望みは男の子でした。私は産まれた瞬間から父に捨てられていました」
 「さっきの男はなんと言った?」
 安楽椅子の背もたれを立たせて、男は女と向かい合って座った。女の頭は背もたれの上部に後頭部を固定されており、がっくりと天井を向けられている。だから、口は半開きになっていて、いかなるものの侵入も阻止できない。
 『評価を下される者は常に劣勢におかれている』
 「君は父親に見くびられた。」
 『見くびられた者は、許すことで対抗する』
 「君は父親を許すことが出来たのか?」
 『関係はいずれかの完全なる消滅と他方の忘却とによって絶つことができる』
 その男の言葉を繰り返す彼女の声に生気は含まれていなかった。男は女の言葉を、活字のように指でなぞることさえ出来た。
 「君はその男の言葉に従ったのか」
 『言葉は追いついた。私の生命は出会いよりも以前から存在していた』
 「だが、君の体験はその男に評価されているのではないのか」
 女はうつろに笑った。開かれた唇の間からちろちろと舌を覗かせながら、女はひきつけを起こしたように笑った。
 「彼の言葉は、もっと普遍的で実証的な真実でした。私の中で、彼の言葉が明確な形を取り始めたときから、私の本当の生が始まったのです。これまでの混沌とした私という存在が、彼の言葉を核として結晶となり、外界のどのような刺激にも犯されない確固たる存在となりえたのです。彼の言葉は評価などではありません」
 彼女の言葉は哀れみの刃となって、空間をいくつにも分断した。分厚いカーテンに遮られていたはずの陽光が彼を真上から照らし、色付硝子の窓に塞がれていたはずの生暖かい風が男の眼球を擦っていた。男はいいようの無い疲れを感じて、その場にしゃがみこんだ。縁の下の荒涼とした世界が板張りの床を透かして、男の足裏を傷つけた。
 「君は生きはじめた」
 「私の生は、あの人が発掘してくれた」

 足裏からとめどなく血が流れた。乾いた土がそのあらかたを吸収していった。まるで、その血液がもともとあるべきところへ返っていくかのようだった。凝固した血液に足を固着されたまま、重力までもが男の血液を抜き取る手伝いをしていた。彼方に青い月があった。男は朦朧とする意識の中で、確かな快感に震えていた。
 体は重力に引かれ、魂は月に引かれる。自分の意識が遥か上空にまで伸び、全てを俯瞰できる高度にまで達した時、今度は水平方向に広がり始めた。夜の大気がかすかな湿り気によって男をなぶった。湿り気は重さを招き、重さを増すごとに不快が募っていく。
 意識は広がるにつれて希薄となり、冷やされて氷の粒に変わった。激しい落下の感覚の中、男は自分が結局、地表に戻っていくのを感じた。
 「絶望は根源的だったはずだ」
 「救いを否定することは絶望の条件ではない」
 男はもう一人の男と対面していた。一人は神と呼ばれ、もう一人は堕落師と呼ばれていた。
 「救われる可能性があるのにもかかわらず、なぜ、彼女は絶望した」
 「彼女の絶望は完璧だった。何人たりともそれを救うことは不可能だった」
 どちらが神なのか、どちらが堕落師なのか、男には判断がつかなかった。二人はじつに良く似ていた。口許だけがかすかに異なっているだけだった。一方には冷笑があり、もう一方には嘲笑が宿っていた。女はその様子を息を詰めて見守るしかなかった。
 「彼女は何べん殺されたか知れない。彼女には復讐する権利があった」
 「殺されたものが殺す側に回る。それで平等だというのは欺瞞だとは思わないか」
 「平等?」
 縁側に吊るされた無数の薄片が風に揺られてかさかさという音を立てた。女は思わず口を抑えた。歯の根が浮くような感じがしたためだった。
 「忘却する人間とされる人間がいる。どちらも一人の個人を亡くすことに変わりは無い」
 「殺したものに、良心の呵責は無い。だが、殺されたものにとっては、自分をつなぎとめている糸が目の前で断ち切られていくようなものだ。それは 絶望を招く」
 「そうして、死をも呼び寄せる」
 「彼女は死を免れたわけではなかった」
 「彼女は周囲を見回して悟ったのだ。冷たく暗い土の匂い。亡者の気配さえない孤独という地獄に落ち込んだのだということを」
 東の空が琥珀色になる。かすかな光の中に、数千の絹糸が流れてくる。息を殺して立ちつしている女の体にもその数本が絡みつく。つまみ上げると、体温のために泡となって消える不思議な糸は、日の出前の数分間に、森のほうから流れてくるのだ。
 「彼女は殺されながら生きるといっていた。殺されるということは、まだ生きているということだという解釈は、まさに絶望的と呼んでよいだろう。一人、また一人と殺されていくうちに、その事実自体が総体としての滅びへの方向を示しているのだということを、その解釈は内包していなければならない」
 「殺される、という言葉は曖昧だ」
 「だが、事実は明白だ」
 巨大な太陽が音も無く昇る。女はやがて見える大いなる光を待ち焦がれて空を見上げる。今日も、昨日の続きが始まるのだと、女は思う。そして、それは夏でなくてはならない。
 「窒息死に似ている。人々の記憶の中で徐々に新たな記憶の下敷きにされていくのだ。彼女の存在は、例えば小学校の六年分の記憶の中では、思い出すことの出来ない時空に紛れてしまう。君は小学校の六年分の記憶を六年間に渡ってきっちりと語り尽くすことなどは出来はしないはずだ。記憶は圧縮される。区別のつけられない物事は存在しなかったかのように消滅してしまう。彼女の地獄はそこにある」
 蝉が鳴き始めると、森が震える。足元の地面では無数の虫たちが活動している。全てが生命に溢れていた。この躍動が、食うものと食われるものとの闘争である事を、彼女は知っていた。