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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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五「季節は夏のままで〜ているしかなかった」



 季節は夏のままで、雨は一滴も落ちなかった。信夫はこの気候に慣れた。そしてこの気候によって蹂躪された庭の風景に慣れた。真っ黒な影と実際にはもっと明るいはずの光とのコントラストの間を、女はふらふらと漂っていた。信夫は、知らず知らずのうちに女の後を追う。信夫は女といると、気狂いが持つ出刃の冷気とでもいうような物を感じる事があった。それでも女の素性に関しての一切を信夫は棚上げにしていた。それらは光などの届くところにはないのだと、考えていたのである。もはや、記憶も定かではなくなった口髭男も、この女と結び付けられるだけの証拠も無く、そもそもあれがあやかしでないという証拠すらない以上、熱された大気の歪みによって生じた陽炎のようなものだと考えるのが妥当だと思われた。
 結局、日常というやつの循環癖とでもいうものはあまりにも強固で、二人ばかりの闖入者で打ち破れるものではなかったのだ。塔屋の風見はあいかわらず門戸の方角を指したきり微動だにしない。昼間は陽射しが強すぎて見上げる事が出来ないため、夕刻の日が沈む寸前を狙って赤い空の前に青く沈んだその風見を見上げると、矢はいつでも正確に門戸を向いている。どんな風が吹いても決して向きを変えないのではないかと、信夫は訝しみながら、ノドをくつくつと鳴らしていた。
 庭のところどころに赤砂の溜まりが出来た。小枝などは、そこに落ちてしばらくすると、消えてなくなった。女は面白がって、かんざしだの手鏡だのを放り込んだ。それらもじきに消えて無くなった。信夫は念のために柵を拵えた。女は不満そうだったが、午後になってみるとその柵もすっかり無くなっていた。女の仕業か、それとも砂の仕業かは知れない。このことがあってから、信夫は庭に手を入れる気力を失い、一日の大半を書斎か離れで過ごすようになった。女は一人で土蔵に入ったり、古井戸の蓋を外して小石を投げ込んだりして遊んでいた。庭に興味を無くした信夫も、女から目を離すことは出来なかった。時折、ひやりとする事もあったが、あれもこれもと禁止して回るよりも女の気の済むようにさせておいてやったほうがいいのだと考えたのである。だがその分、女を追う信夫の視線には凄惨な光が加わっていった。
 日が落ちて女が室内でばたばたと遊ぶ時間になると、信夫はぐったりとソファーに横たわる。すると見知った女が傍らに座り、風を送ってくれているような心持ちになる。女には姿が無く、ただ信夫の周辺を漂っている。あの女は着のみ着のままでこの屋敷に住み着いたので、身につけているものは全て、信夫のもとに残っていた女のものだ。かなり小さなサイズの服だったのだが、女が着るとあつらえたように似合った。だから、信夫は女のすることをすべて受け入れようと思ったのかもしれない。胸の痛みは慢性となり、赤く爛れたような跡さえ現れている。まどろむ信夫は自分の指でそのみみず腫れをそっと辿りながら、我知らず微笑んでいる。

「いろいろ珍しいものばかりで楽しいお家だわ」
 縁側で寝ころんでいた信夫の傍らを、声が通りすぎていった。見ると、女の背中は屈託なく笑っている。信夫は微笑みを返してみるが、庭から照り返す陽射しがほどこした醜くい陰影を感じて、暗澹となった。
「女の運んでいるものは過去に他ならないのだ。しかも本人のではなく、最も近くにいる者の過去を、女は運んでいるのだ」
 不意の声に驚いて、信夫は起き上がろうとした。だが体はふわふわとして手応えがなかった。背後には一層痩せた口髭の男が座っている気配がした。髭が見えないと、男の声は以前の会見のときよりもずっと明瞭に聞き取ることが出来た。
「あの女の素性を君は知るまい。あの女も語るまい。そのはずだよ。あの女にはあの女自身の涙が無いのだから」
 男の声はぴちゃぴちゃという感じで信夫の耳を湿らせていった。
「あの女は僕と君とをつなぐ唯一のかすがいだ。あの女を救ったのは僕だった。君はいつでも同じことしか出来ないだろう。だからこのままいけば、またあの時と同じ轍を踏むことになるぞ。君はどれほど世俗から離れたつもりになっているか知らんが、結局人間世界のしがらみに三行半をつきつけるという訳にはいかんものさ」
 彼方に雲が湧く。風の気配がした。「風見は回るだろうか」と信夫はそんな事を気にしていた。
「女は僕の所から逃げだしたのだ。もともとは僕のものだったのだ。だが君はそのことを忘れていた。今もこの言葉を信じる気にはなるまい。そういう人間の傍らに、あの女は、いることが出来なかったとみえる。僕はしばらく絶頂にいたがね。女は、僕を越えていたようだった」
 女の体を思い浮かべようとして、信夫はそこに空虚を見た。
「僕は疲れ果てた。飽きてもいたしね。どちらかが一方的に求めるような関係というのは公平ではないだろう。無制限に与えられることは、己の尊厳を危うくする。僕は正直ぞっとしたよ。もう少しで貴重な手駒を壊してしまうところだったのだから。これまでの苦労を思うと僕はよく思い止まったものだと自画自賛を繰り返しても足りないくらいだ。骨ばって、おどおどしていた女が、日を追うに連れて肌の艶といい、目の光といい、別人のように息づいてくるのさ。君のところでも、全くその通りじゃないのかい」
 信夫はぴちゃぴちゃという言葉を聞きながら、腹が綻びていることに気づいた。周辺には、イソギンチャクの触手のような白くぬめぬめしたものが無数にのたうち延びていた。それは信夫の体内にまで入り込んでいた。畳のへりにねとねとした赤い粘液が光り、生臭い匂いを放っていた。胸のつかえるような感覚に信夫の顔が歪んだ。触手がいよいよ心臓に絡みついたのだろう、と信夫は思い、触手を引き抜こうとした。だが、引っ張る触手の先がからめ捕っている物は、臓器の一つなどというちっぽけなものではないようだった。信夫は自分が根こそぎ引き抜かれるような感覚にぎょっとして手を緩めた。触手は体の中と外とに際限なく広がりつづけた。ぶるぶると蠕動しながら、あるものは畳を貫いて地下へ、あるものは背後の髭の男に矛先を向けているようだった。信夫はもう一度腹のあたりでぶよぶよしていれる触手を一抱えにすると、今度は躊躇せず思い切り引き抜こうと力をこめた。ズルリと、触手の固まりが腹から落ちた。とその塊には夥しい量の髪の毛が絡みついていた。信夫は狼狽し、蠢く触手と髪の塊をもう一度腹の中へ戻そうと躍起になった。だが信夫の腕にあまるこの塊は、自分の体の容積をはるかに越えていた。そしてなおも、信夫の体内には無数の触手がひしめきあっていた。もはや、触手こそが信夫自身であった。しかし、この状況を感じている自分はこの化け物を、異物と見ていた。触手は原始の盲目的な衝動につき動かされ、充足するまで進軍する欲望の塊である。だが、信夫はそうした欲望から最も遠い所にわが身を置いてきたつもりであった。
「君はなぜここにいるのだろうね」
 口髭男は、ぬるぬるとした触手に巻きつかれながら、がくりと折れた信夫の背中にむかって話し続けていた。