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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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四「女は信夫と暮らす〜かな女の腹があった」



 女は信夫と共に暮らすようになった。働く必要のない信夫には、目の前で予測のつかない振る舞いを見せてくれる女の存在が、たいへんな慰みになった。女の方は、何が楽しいのか分からないが、ほほ、と笑い、何を悲しむのか分からないが、よよ、と泣いた。そのたびに、信夫にも女の心持ちが伝染して、一緒に笑ったり泣いたりするのだった。
 夏は続き、庭は完全に枯れ果てた。砂が舞って困るので、しょっちゅう水を撒いた。時には女が飛沫の中に立ち、ある時は信夫が水を被った。庭に撒かれた水は、大抵すぐに蒸発し、ふらふらと天空に登っていった。二人はそれを見ながら、大きな西瓜を齧ったりした。
「私、大きな西瓜を抱えて、遠くまで歩いていったことがあります」
 良い音をさせながら、女が呟くように言った。そこは坪庭に面した内縁側で、一年中、陽が入らず、苔の匂いが漂っている。座敷の向こうには、土蔵が四つほど並んでいるが、そちらはすっかり太陽にやられて、壁などがひび割れ始めていたが、この苔むした坪庭だけは、確かに水を含んでいた。だが、その水は陰鬱さと渾然としており、水気だけを楽しむというわけにはいかなかった。そして、水気があるとはいっても、夏の温度から逃れられるわけでも無かったのである。縁側の土台は腐りかけていた。様々な匂いがゆらゆらと空へと昇っていくその途上、坪庭をぐるりと取り囲む軒庇には、桜貝のような白い薄片で作られた風鈴がずらりと並んでいたが、全てが垂直で微動だにしなかった。
 信夫は、浴衣を半ばめくりあげて片膝を縁に乗せ、もう片方の足に下駄をつっかけてぶらぶらとさせながら、西瓜に歯を立てていた。
「この夏は、西瓜も品薄になった。僕なども幾つ食べたか知れないくらいだ」という信夫の言葉の後で、女の話が始まったのだった。
「なぜだか、とても楽しいことがあったのです。好いた人のところへでも行く途中だったのかもしれません。私、歩いて、歩いて、もう日が傾きかけていました。カスリの着物の裾が乱れてしまって、でもそんなことはどうでも良いように思えるほど、一心に歩いて、歩いて、体の前には、大きな、丸い、西瓜を網に入れたのを垂らして、こう、よろよろとしながら、ずっと歩いていたの。それを買ったのは、知らない八百屋で、そこの主人は、いやらしい笑い方をする中年でした。私、そんな人とかかわり合いになるのは、普段ならばきっと避けていたに違いないのですけれど、その日に限っては、簾の向こうにすけていた大きな西瓜に引き寄せられるように、ふらふらと軒へ入ってしまったのです。そこの主人は、私を値踏みするように見ながら、『西瓜。姉さん。西瓜だ。今年最後の西瓜だ。これほどのもんは、もう一生出ないかもしれないですぜ。姉さん。あんたこの西瓜に見入られているんだろ。たまんないんだろ。俺はあんたがずっと向こうを歩いている時から、ああきっとここへきて俺の西瓜にむしゃぶりつくに違いねえと思っていたのさ』 などと言うんです。私はつんとすまして、そんな西瓜になんかに興味が無いふうを装ってみたのですけれど、駄目ね、半ば閉じた瞼の隙間から、どうしてもあの西瓜を探してしまって、探しながらもう頭の中にはさっき見た西瓜の形がどうしても消えなくなってしまっていて、主人がよごれた前掛けをバタバタさせ始めて、だんだん私の方へ擦り寄ってくるの。私はこっちの目を西瓜に、こっちの目を主人に合わせてじっとすまし顔をしていたの。だって、本当にそれは、真っ赤な汁をたっぷりと滴らせてくれるに違いないって、分かっていたんですもの。主人はね、腹を突き出して、両方の手で何かの形を作ってにたにた笑いました。あれが笑い顔かしら。そう、きっと笑ったんだわ。その顔がこちらの目から私の体の中に飛び込んできて、べったりと張りついたような気がして、気分が悪くなってしまって、その場にしゃがみこんでしまったのです。西瓜、西瓜。面白いでしょ。私、西瓜、西瓜ってずっと繰り返して、そっと目を開いたら、こっちの目の中いっぱいが西瓜になって、その後ろのザルと包丁も見えました。手垢や埃にまみれたザルはとても気持ちが悪かったけど、包丁のほうは、特に木でできた柄の所は、同じ汚れでも、深い艶が出ていて、本当に握りやすくて、綺麗だったわ。
 主人が私の背中に何かをあてて、しきりと何かを言っているのが聞こえて、背中が暑苦しいような湿っているような気がして、わたしはどうにも我慢が出来なくなってきました。それで、勢いをつけて立ちあがって、両手を振り回しながら主人の方へ向き直ってやりました。主人は驚いたようにたるんだおなかをぶるぶると震わせているの。立ち上がった拍子にスイカが転がって、ひびが入ってしまったのか、赤黒い汁があのザルの周りに溜まっていて、甘いような匂いが店先に一杯になったわ。私は網を拾って転がった大きな丸い西瓜を突っ込んで、歩き始めました。もう、二度とあの八百屋にはだけは行きたくない。頼まれたって、ごめんこうむりたいのです。本当にごろごろした大きな西瓜だったんです。重くって、大変に難儀をしました」
 信夫は最後の西瓜をしゃりしゃりと齧り、したたる甘い汁を舌で舐め取ると、皮を縁の下へ放った。女は背中から力を抜き、ため息をつくと手拭いで指の一つ一つを丹念に拭っていた。
「その西瓜、おいしかったのですか?」
 信夫が懐かしむような響きを持った声で訪ねた。その間も女は指の一本一本を拭っていて、信夫の質問には気づいていないようだったが、大分経ってから、はたと手を止めると腰を引き、団扇で扇ぐような仕草をした。それから、「おぼえていないの。その西瓜がどうなったのか」と独り言のようにつぶやいた。
 女は皿を両手で抱えると口元へあてて、西瓜の汁を口の中へ流しこんだ。汁は唇の脇から顎をつたい、おとがいから襟の中へと流れた。信夫には、まっすぐに伸びた女の首筋が、ぼうと光っているように見えた。信夫は自分の首を精一杯伸ばし、女の首を啜った。女は口を開いてのけぞった。西瓜の汁の跡を信夫の舌が這っていき、女の胸元へ届いた。女は信夫のために浴衣を開いた。閉じた歯を見せて笑った顔をすると、女の下に信夫の後頭部があった。そして信夫の前には、柔らかな女の腹があった。