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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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二「鳥の鳴く声が聞こ〜うどうでもよかった」



 鳥の鳴く声が聞こえた。何かがしきりと身体をなでまわしていた。全身が濡れて冷たかった。眠っているのか、起きているのか、などと考えているうち、何かが炸裂するような音がして、身体が跳ね上がった。眼を開くと薄い靄のようなものが眼球を擦った。自分がどこにいるのか分からないまま、信夫は起き上がろうとした。ひどい吐き気がした。腹が硬くなり、涙が流れた。再び身体の上を何かが這い回っていた。それは生暖かく柔らかかった。もう一度ゆっくりと身体を起こした。開け放たれた扉が遠くに見えた。扉の外を白い粒子が、折り重なるように西から東へと流れていた。その幾万分の一かが、信夫の周囲にまで漂ってきているのだった。肌から体内にまで染込むようなその白いものは、信夫の頭を重くぼんやりとさせていた。
 次第に意識がはっきりしてくると、自分はずっと書斎のソファーで眠っていたのだということを思い出した。かわりに先ほどまで見ていた夢のような光景が、だんだん薄らいでいくのだった。たらたらと内臓を引き摺り出され、とうとう自分が裏返ってしまうという奇妙な記憶が、白い粒子の背後に消失していく。
 朝の庭に霞が流れている、という事の重大さに気づいたのはそれからまだしばらく後のことだった。夏が再びやってきてから、露ほどの湿り気も与えられていなかった庭が、一夜のうちに復活を遂げていた。おびただしい緑が庭の土を覆い隠し、空気までをも染め上げたかのように見えた。信夫はおぼえず立ち上がり、テラス扉の前に仁王立ちした。霞はかなりの密度をもっていた。自分の足先はおろか臍のあたりさえもが、ぼやけていた。それでも庭の緑だけははっきりと確認できた。深呼吸をすると気管にびっしりと水滴が溜まるように思われ、激しく咳き込んだ。そして信夫は自分が全裸であることに気づいた。信夫の肌は、内部からじっとりと染み出してくる朝靄の蒸気に光っていた。このようにして見る身体は、信夫の思い描いていたものとは似ても似つかぬ形に完成されていた。

 その日を漫然と過ごした信夫の家に、今度は男が一人訪ねてきた。細身の男は、熱波の中できちんと三つ揃えを着込んでいて、樫のステッキとパナマ帽まで携えていた。玄関脇の待合に腰を掛け、案内を乞う声も上げなかったので、いつからそこに座っていたものか検討もつかなかった。信夫は一日中庭内をうろうろしながら、時折ぴくりと後ろを振り向いたり、考え事をしていて木の根に躓いたりして過ごしていたので、たいへんに疲れていて、母屋に辿り着いた時には、足元もおぼつかないありさまだった。息を荒げてようやく到着した玄関先に、その男はいた。
「久しいな。かわりなく元気そうだね」
 男は立ち上がり右手を差し出した。信夫は呆気にとられた。傍らの暗がりから突然に、隙の無い身なりの男が現れて、自分に握手を求めてきたこの出来事が、疲れ果てた脳の作り出す幻影ならどれほど楽だろうと思った。しかし、男の右手はかすかに震えながら、確かに自分の前に差し出されていた。骨ばった手は青白かったが、それはおそらく光の加減でそう見えるのだろう。
「どうした。まさか見忘れたわけじゃあるまいね」
 男が微笑みながら信夫の肩に手を置いた。その手の冷たさが、信夫の身体を真っ二つに分けた。一方はこの男に応対しようとし、もう一方では非常な重苦しさを持て余していた。
 男が微笑んだので、鼻の下の髭が広がった。無意識のうちに信夫の意識はこの髭の活動だけに向けられていった。髭は延びたり中央に集まったり、非常に薄くなったり、くるくると回転したりした。髭さえみていればその男が何を考えているのかが手にとるように分かるような気がした。信夫は髭の動きに専念するあまり、うっかり男の口上を聞き逃してしまった。髭の動きにつられて自分の上唇が動いていることにも気がつかなかった。いつのまにか信夫は男と硬い握手を交わし、男を書斎に案内していた。三和土にステッキが立てかけられ、帽子かけにパナマ棒がぶらさがり、靴が一足きちんと揃えて置かれていた。それらは玄関の雰囲気の中にしっくりと溶け込んだ。信夫はこの男が靴脱ぎで髭をはずすのではないかと半ば本気で思っていた事に気づいて、苦笑した。だが笑顔はこの男の素性がまるで何も分からないという恐れのために凍りついた。
「…だから過去というものはいかなるものにも潜伏していていつ発現するか予断を許さぬ類のものじゃないか。いや、むしろ過去というやつは隙あらば第五種の伝播媒体に這い出して新たな寄生主へ取り付こうと身構えている、まったく油断のならぬ物なのだ。それは有限無限と問わず、物質非物質にも頓着しない。われわれ人間はせいぜい三次元時空間の中を不器用に移動するだけしか出来ないのだから、過去は、われわれの速度など容易に追い越すことができるし、あらゆる防御も完全ではないのだ。一度、取り付かれたら心身を灼熱の地獄に晒されるがごとき苦しみが襲い、耐え切れずに命を絶ったからといって、あいつらから逃れるなんてことは不可能なのだ」
「結局は、主体的な過去なんてものはありはしない。事実というものは単に事実であったという確認か、事実であったろうか、という検証の上にのみ存在するものではないのか。過去は常に時とともに変化し、新たな記憶の下に埋没する定めにある。にも関わらず、過去が、過去そのものとして存在しているという君の考えは、あまりに不遜だ。時系列も移動概念も、つまりは過去を過去のものとして確定するための手段にすぎず、その手段によって全てが統括されている以上、過去の変質はまた必然なのだ。そうして、過去の存続を主張している君ですら、この大前提の下に生存しているのに違いは無いのだ。従って、ある物が、無制限に増殖し続けるという仮定は、君の立つこの地平では成り立たないのだよ」
 穂積信夫は書斎でかわされる話をぼんやりと聞いていた。髭の男がいったい何者で、何を望んでいるのか、それすらも分からないままに、二人は打ち解けた議論を繰り広げていた。しかし、自分が何を言い、相手が何を言っているのかという区別が、信夫にはつかなかった。自分は、三人掛けソファーのまん中にかしこまって座っている。そして目の前にはいつの間に用意したのか分からない飲み物を手にして、足を組んで深々と一人がけの椅子に身を沈めている男がいる。口ぶりからしてどうやら自分が何事かを頼んでいるようだったが、この男はそれを面倒がっているのだ。ランプがついていないので部屋は暗くなり、コーヒーカップの金細工が電気のような光を放っているのが見えた。背後のテラス扉にはレースのカーテンがしっかりと閉ざしてあって、それが青黒い闇の色をしている。カーテンが揺れると、まるでこの書斎そのものがいびつに揺らいでいるかのように感じられた。
「…君にはそうする義務があるのだ!」