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みやこたまち
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そののちのこと(無間奈落)

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 男の声が一際大きく響いた。びりびりと書斎の調度が震えた。ガラスも振動した。天井裏の柱や梁までもがびりびりと震えている様子が、目に見えるようだった。男は怒っているようだった。ハンカチで口元を拭いながら、しきりと細縁の眼鏡を直している。信夫はいままで、この男が眼鏡をかけているということに気づいていなかった。最初、待合から現れた時のことを思い返した。しかしそこには赤く湿った二枚の唇の上に髭だけが漂っていた。帽子、ステッキ、靴、それらは確かに男のものだろうと信夫は思った。玄関に揃えられた一足の靴が静かに主人を待っている姿が思い出された。そして、自分が履いていたはずの靴がそこには無かったということに思い当たった。両手を振り回し、口角に泡を飛ばして何事かを怒鳴っている男の姿がすっと遠のいた。距離はあいかわらず手を伸ばせば届くところに対座しているのだろう。しかしそれは単に男の姿が網膜上に像を結んでいるというだけのものであり、書斎の壁や、書棚の背表紙といった風景と変わらなかった。先ほどから男の唇の上では髭がさかんに活動をしていたが、左の端が力なく垂れ下がっていた。
 そっと自分の足元に眼をやって靴を履いているかどうかを確認しようとしたが、部屋が暗いせいで膝から下が見えなかった。試しに、絨緞の上を滑らせて感触だけでも確かめたかったが、男の様子を見ているとそうすることが躊躇われるほどの真剣さだったので、気が引けるのだった。自分の足先が靴のままなのか、それとも靴下が埃まみれになっているのか、信夫はたいへんに気になっていたのだが、とにかく男の弁論が済むまでは我慢して座っていようと決めた。相変わらず何を言っているのかは分からなかったが、それは多分男のせいではなくて自分が疲れているせいに違いなかった。昨夜から信夫の周りにさまざまなものが増えているような、ざわざわとした気持ちがした。
「過去は幾度も幾度も巡ってくる。僕はその度に同じ事をしてきた。もう、選択の余地はないのだから。君も含めてわれわれは再びあいまみえた。互いに忘れてしまうほど遠い所から始まった因果が、再びわれわれを結びつけるのだ。どこに逃げても無駄だったのさ。この世にいる限り、われわれはこのしがらみからの解き放たれることはないんだ。僕にはそれが分かっている。君のように身を隠して過去から目を背けつづけていては、それは決して分かりはしない。僕はずっと考えてきた。結果がこれだ。君もそれを思い知るがいい。過去は消失しない。忘却の彼方に押しやられても、それは決して無には帰さない。常に、そう、常にだよ」
 男はマントを翻して立ち上がった。裾が信夫の頬をかすめてひりひりとした。書斎の扉が開かれ、男は走り去った。信夫はぐったりと疲れてソファーに横になった。もうどうでもよかった。