そののちのこと(無間奈落)
十四「先生」「何かね」〜の身体を男に被せた」
「先生」
「何かね」
微笑を作って、男が信夫の目を覗き込んだ。信夫は瞬きもせず、焦点があっているようにも見えない瞳で、男の眼球を受け止めている。
「先生は、僕よりも多田一郎の言うことを信用するのですか?」
小さくかすれる声で、信夫は懇願するように表情を崩し、男のひざにしがみついた。
「ゆっくりと話してみなさい」
男は鷹揚に応えた。だが、その声はわずかに震えた。
「僕よりも前に、先生、多田は、みづはに会っていると、本人が、確かに、そう言っていた。」
信夫が言わんとしている内容を知り、男は、たとえ一時でも信夫の反撃を思い、警戒した自分に苦笑した。
「だから、それは君がそう考えているだけだ。君は責任逃れをするのに必死になっているんだ」
「先生。多田一郎だ。あいつは自分で言ったんだ。『お前よりも前に俺はあの女を知っていた。』そう、確かにあいつは、自分で、言ったんだ」
この一言は、信夫の記憶が破綻したことを意味していた。信夫にとって過去を語る言葉は、過去そのものであり、そうした前言の撤回は、過去の破綻を意味していたからだ。信夫には、この意味が十分にわかっているはずだった。全てが緻密に整合していたからこそ、虚構を現実として生きることが可能だったのだ。この後、信夫はこの不用意な一言を正当化するために、無様な辻褄合わせを始めようというのだろう。そんな信夫に勝つのは、簡単な詰め将棋を解くようなものだと、男は思った。
「それは、何時の話だい?」
「みづはが、一度目の発作を起こすちょっと前のことだったよ」
信夫は即答した。「緻密に編み上げていたとはいえ、過去にはたくさんの隙間があるものだ」と男は即座に分析した。いわば本線に影響を与えない部分に、新たな脚色を施していくつもりなのだ。だが、みづはとの出会いの順番は、絶対にそんな部分的な修復ではおいつけないほど本質的な問題だったはずである。男はさらに手を進めた。
「もう一回聞くよ。多田はいつ、みづはと会ったんだって?」
「僕よりも前だって。僕は十二月にみづはに会った。それよりも前に多田はみづはに会っていた。多田はみづはが手に負えなくなったんだ。だから多田は僕のところにみづはを送り込んだ」
「なぜ、君のところへ送り込んだのだね?」
「多田の家と穂積の家とは仕事の上の競合関係にあった。といっても、穂積は多田なんて眼中に無かったんだけど、後進だった多田は、穂積に追いつけ追い越せをやっていたんだ。多田一郎は長男で跡取だから、仕事にも関わっていたはずだ。そこで、穂積の家の事を知っていたんだよ。そこにいる同い年の男の事もね。そういう時期に、多田はみづはを知っていたんじゃないかな。どういう関係かは聞いたことは無いけれど、みづはは多田の深層までも照らし出し、抑圧されていた黒い衝動を呼び覚ましてしまったに違いない。僕は事業には興味がなかったから、多田なんて知らなかった。父も毎日遅くまで戻らなかったし。だから、同じ学校に僕がいて、しかも特別推薦を受けて、親の遺産でアルバイトもせずに遊んでいるというのが許せなかったんじゃないのかな。それが、理不尽な怒りに変わったのさ。きっとそうだ。それ以前から、彼女はみづはだったのかもしれないし、多田が彼女をみづはにしたのかもしれないけれど、僕はそう信じている」
信夫は、よどみなく言葉を紡いでいった。男は次第に落ち着きがなくなっていった。信夫の中で今まで触れられることのなかった背景が形成されていたからだ。男は手違いに気づいた。破綻を明らかにするはずの質問が、破綻を埋めるための素材になってしまっている。いや、それこそが信夫の才能だったのであった。男はもう質問することが出来なくなった。質問は信夫の捏造した過去の綻びを明らかにする。だがそれに答えることで綻びは縫い合わされてしまうのである。しかし、言葉で作られたものは言葉でしか破壊できないのだ。形勢は逆転した。
男は危険を感じて後ずさりしようとした。しかし、足はしっかりと信夫に掴まれていた。
「先生は騙されているんです。僕の経験したことがみな作り事だなんて、信じさせられているんでしょう。多田という男は、そういう風に口が巧みな男なんです。心理学を専攻していたし、才能だってあった。みづはだって、うまいことを言って、連れ出して、言葉で壊してしまったに違いないんです」
信夫はじっと男を見ていた。男は自分が仕掛けた罠をすりぬけた信夫の余裕と、もはや避けようの無い逆襲の予感とに身震いをした。
「先生は、それでも多田一郎の方を信用するんでしょうね」
「まだ、分からない。私は常に人の言葉を、その背後関係まで知らねばならないと思っているのだから」
信夫の表情には先ほどまでの怯えも、絶望感も消え、先ほどまで男が携えていた含み笑いに似たものが宿り始めていた。
「先生。多田一郎の背後に何があるのかは、私が今説明してあげたじゃありませんか。あなたが多田に会ったという事実がある以上、先生は他にどんな説明が出来るというのです」
男は体をよじり、腕を振り回した。背後のベッドの掛け布団に時計か指輪か爪かが引っかかり、大量の羽毛が弾け出した。引っかかった布団ごと、なおも腕を振り回してその場から逃れようとする男の体を、信夫はずるずると這い上がっていった。
「先生。嘘はいけない。私はいつだって、嘘をついたり、誤魔化したりしたことは無い。それは許されないことだ。先生は私の大切な思い出を引きずり出し、それを否定しようとしましたね。そんなことをされた人間がどうなるか、先生には分かっていると思っていましたがね」
男の腰から胸へ、信夫の顔がせりあがってきた。男はなすすべも無く恐怖におののいていた。悲鳴をあげてしまいそうな自分を懸命に抑えながら、男はふりしぼるように言った。
「目を、目を開けろ。真実はそこにある。目をあけろ。真実はお前の中にあるんだ」
「うるさいよ。多田」
男の視界が信夫の顔に塞がれた。信夫の口から、何かぬめぬめとした白い触手のような物が飛び出し、男の口腔内に侵入していった。男は声を上げることもできず、ただ大きく目を見開いていた。
「それだ。それがお前の抱えた最大の罪だ」
だが、男のこの最期の叫びは言葉にならなかった。信夫の胸が大きく膨らみ、何百という触手が男の皮膚に吸い付き、ぶるぶると蠕動しながら体内への侵入を果たしていった。やがて、無数の触手を受け入れた男の体が次第に裏返っていき、触手に呑み込まれるように消滅した。信夫は薄笑いを浮かべながら、その一部始終を眺めていた。
「こうなるべくしてなった」
呟きは、信夫の口から自然に出た。しかし、なぜそんな事を呟いたのか信夫には分からなかった。むしょうに疲れていた。目の前にはソファーがあった。信夫はソファーに倒れこみ、そのまま深い眠りに入った。そのソファーに横たわっている女には、気が付いていないようだった。女は眠りから覚めたのではなく、眠ることが出来ないでいるような目をしていた。彼女は突然に入り込んできた男を、無感動に見た。そして機械的に、「また仕事をしなければならない」と思った。
薄暗いランプの光が、男の顔を照らしていた。女は自分の体を男に被せた。
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち