そののちのこと(無間奈落)
エピローグ「さしもの猛威を振〜が辺りを包んでいた」
さしもの猛威を振るった太陽も、漸く陰りを見せ始めた。しかし、焼き尽くされた地表が再び緑に覆われる日がくることは無いだろう。一面をひし形に分割された琥珀色の地表が、ベルベットのように毛羽立っている。水分とは、緑であり、停滞と安定だ。それはずっしりとしていた。この重みは水に包まれることで相殺され、予想外の軽さの感覚は白痴のような微笑みによって甘受された。そのようにして無為な時間を過ごすことが、そのままで許されていると信じることが出来たのだ。実際、生きているということは、それ自体で完結した一つの状況にすぎず、ただ、流れに身体を横たえているだけでどこかへ連れて行かれることになるのだ、などという楽観的な生は、生そのものを意識する必要もないほどに当然のものであった。どこからきて、どこへ向かうのかという疑問は、無意味だ。そのように過ごしてきた時間など、何のしるしも残さぬままに消えてゆくべきなのだ。当たり前に月日がめぐり、春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎる。気にとめる必要の無い物事は、全て自分の身体から微妙に離れたところを通り過ぎていくだけだった。父、母、親戚、同級生達も、同じく当たり前のようにそこにいて、当たり前のように去っていくだけの存在だった。それは、存在ですらなかった。
全ての物事は均質で、それゆえに全ての物事は変化しない。自分自身ですら、ただそこに居合わせているだけの存在なのだ。必要なものをとり、不必要なものを見送る。行動でも、欲望でもない。もしも、本質というものがあるとしても、それとは全く無関係のところで起こる様々な変化や干渉は止められるべきではなく、止める術も無いものなのだ。全てが同じように移ろっていく。そこに意思は介在せず、移ろいもまた幻に過ぎなかった。
世界からは色が消えつつあった。水分の消失は世界をより簡素化していった。かつて緑だった庭に思いを馳せることに何の意味があるだろう。信夫はぐったりと身を沈めながらそう思った。疲れていた。書斎の壁はひび割れ、窓ガラスは砕けていた。そのかけらを手の中で弄びながら、信夫は疲れに慣れようとしていた。かけらは、手を切る心配が要らないほど鈍く、曇っていた。時折、身体の向きを変えると、身体の中にたゆとうような質量を感じた。疲れとは、この質量のことなのだろうと、信夫は思った。身体の隅々にまで浸透した重さが信夫の全身にけだるさを感じさせているのだ。
信夫は体内の重さに身体をなじませようとしていた。たゆとうような感覚は、一度感じると、常に感じていなくては不安になる何かがあった。信夫はその不安に気付くよりも早くソファーを降り、床の上を転がりはじめた。重さは、信夫の身体に反発するように、先回りするように、止めるように、押し進めるように、働いた。その微妙なずれは、信夫に「孤独」という感覚を思い出させていた。自分が揺さぶっているはずの、重みに、逆に揺さぶられている自分に気付き、言い知れぬ不安がこみ上げた時、信夫は、自らの体内に何かが息づきはじめているのではないかと疑い始めた。ぶるぶるというゼリーのような振動が、確かに体内から発せられていた。信夫は必死になって、その振動と回転とを、自分のに同調させようとした。テーブルを倒し、割れたガラスもお構いなしに、信夫は部屋中を転げまわった。弱弱しい光が信夫の姿をぼんやりと照らしていた。信男は書斎から庭へと転がり落ちた。乾いた大地に乾いた埃りが舞った。たゆとう物は確実に膨張しているようだった。今では、その重みの慣性によって、信夫は突き転がされているのと変わらなかった。身体中が擦り切れ、血が流れた。血は地面に染み込んでいった。凄まじい速度で転げまわる信夫の目に、赤黒く染まる大地が映った。地表はあまりにも貪欲だった
かつてはこんな不均衡を感じたことはなかったと、信夫は思った。そう思った瞬間に、信夫はこれまでの全てを思い出していた。てらてらとした薄赤い肉塊が信夫の顔を撫でた。耐えがたい疲れが信夫の全身を押さえつけた。自分の腹から肉の塊が立ち上がっていくところを、信夫は凝視しつづけた。それが、体内から出てくるにしたがって、自分の乾いた皮膚は、ぬめぬめした肉塊の裏側に巻き込まれていった。夥しい量の血と水がことごとく大地に浸透していった。恐怖は過ぎ、ただ気だるかった。信夫は再び眠ろうと思った。瞼を下ろしていくと空はだんだんと暗くなり、世界が閉ざされていった。信夫を引きずりながら立ちあがった肉塊は、明らかにそれとわかる人間の形に変化しつつあった。庭は潤い始めていた。周囲が青くなり全てが影になった。信夫は眠ろうと思った。再び目覚める時がくるまで、ただ眠ろうと思った。さまざまな記憶が一瞬火花のような光を放ち、その後は白い霞のようなものが辺りを包んでいた。
完結
作品名:そののちのこと(無間奈落) 作家名:みやこたまち